柔らかな日差しも、梢を抜けて行く涼やかな風も、今の彼の気を惹く事は出来なかった。
「異状ありません」
彼の姿に気づいた衛兵はさっと敬礼をする。 騎士団長はその怜悧な眼差しで彼を一瞥し、庭園へ続く小門を通り抜ける。
野薔薇の茂みの奥にもその姿は見えなかった。西奥の例の庭園にも居なかったから、多分城館のどこかにいるのだろう。
ウィスタリアのプリンセスと外務官僚がシュタインに来て1週間が経つ。交易相との会談の為の非公式訪問だったのだが、帰国間際に国境付近の道路の崩落事故があり、復旧するまで滞在することとなったのだった。
官僚はここぞとばかりに外交に精を出す一方でプリンセスは、と言えば。さしたる用事もなければ、ただ徒に時間を潰すのみなのか。彼女は貴婦人達のサロンには あまり興味を示さない。今日もとある公爵夫人からの招待を体調不良と偽って欠席し、挙げ句の果てに部屋から脱走(女官の報告)ときている。
恒例化しつつある、この「かくれんぼ」に呆れながらもつき合っている自分に苦笑する。
門兵の言葉通り、庭園には誰もいなかった。ひょっとしたら彼の目を盗んで行き来したのかも知れないが、当人の姿がないのだから仕方がない。
明るい外から一転して、薄らと影を落とす城内の廊下に踏み入れたとき。
ぱたぱたと駆けてくる足音が後ろから響いてきた。
「アルバート様!」
プリンセス付の『小賢しい』女官は彼に追いつくと、挨拶もそこそこに息を切らしながら話し出す。
「マリオン様は?まだお部屋に、お戻りに、なってないんです。お外にも?」
「いなかったな」
見れば分かるだろう、とアルバートは女官ルルを見下ろした。建前上は具合が悪いことになっているのだから、部屋にいなければならないことくらいわかっていた筈だ。それを見て見ぬ振りをしていただろうに、何故今更捜そうとするのだ。
ルルは大きく深呼吸すると、アルバートを見上げて口角をにっとつり上げた。
「私が捜しに行けない場所に居らっしゃるのかもしれませんわ?アルバート様」
挑むような目つきは彼女の主人のそれにも似ていて、姉妹のようだと彼は思った。ただ、彼女の射抜くような強さはこの女官にはない。
「捜しに行けない場所だと?」
確かに彼女は一介の女官であり、ウィスタリアの人間だ。自由にこの城内を歩けるわけではないが、これの主人同様、持ち前の機転と行動力で、大抵の場所に足を踏み入れているではないか。ひょっとして国王の?と思ったがそれはさすがにあり得ない、と思い至ったとき。まさか。
女官はこちらの表情に気づいたのか、その顔は完全に笑顔となった。
「ええ。さすがアルバート様、お気づきなのですね?」
こいつは。人が気づいたのをしてやったりな顔で眺めてくるとは。更に女官の言葉で彼女の居場所にようやく見当がついたという事にも腹が立つ。
「わかった。ひとまず礼は言っておく」
どういたしまして、とルルは恭しくお辞儀をした。
踵を返し先を急ごうとする騎士団長に、ルルは声をかける。
「アルバート様。お忘れにならないでくださいね?」
アルバートは振り返った。
「くれぐれもお願い致します。私達はシュタインのものではございません。ウィスタリアに帰る者なのですから」
頭を下げたままの女官の表情は見えない。彼は「わかっている」と小さく呟いた。その遠回しな牽制の言葉に、彼の国の一筋縄ではいかない若手国王側近達の顔がちらついた。それなら外になど出さず、首に縄でもつけて檻の中に閉じ込めておけば良い。
『いいえ?プリンセスの命令には逆らえませんし、なにしろ貴国の陛下は我がプリンセスをことのほかお気に召したご様子ですから』と、教育係が口元だけに笑みを浮かべて語った言葉を思い出す。
女官の去った後、説明のつかない苦々しい気分を振り切るように、アルバートは目的の場所に向かって歩き出した。
長逗留の気晴らしになれば、と晩餐会が開かれることになったのは、3日前のことだったか。
「これもお似合いですわ、プリンセス」
「こちらの薔薇のレースも素晴らしいと思いますわ」
扉を開けたその先に、テーブルを囲んでウィスタリアのプリンセスとその周りにいつもの女官と侍女、そして商人風の男女が2人控えていた。
「これは一体なんだ?」
彼らはプリンセスの応接間にやってきた騎士団長の声に気づくと、銘々に彼に向かって挨拶のお辞儀をし奥へ下がる。
テーブルの許にはプリンセスと彼女のお付の女官が残った。
「ごきげんよう、アルバート
プリンセスはちょっと驚いた顔で、でもすぐに目を細めてアルバートに柔らかく微笑んだ。ああ、と口の中で小さく返事をする。いまだにこの笑顔には慣れない。ふと横に目をやると、女官が口元を押さえて俯いていた。
「ルル?もう…、お止しなさいったら」
ごめんなさい〜とルルは両手で顔を覆って大きく息を吐いた。何がおかしいのだ全く嫌みな女官だ、とアルバートは忌々しく思った。
「ええと、もう時間なのかしら?」
彼はプリンセスが城下視察(という名の外出)をしたいと言うので、ここへ足を運んだのだが。
「いえ。少々早かったようですね。出直します」
「ううん。いいの待っててくれる?もう終わるから」
聞けば、晩餐会用の衣装に合わせるためのアクセサリーを選んでいたという。王室御用達の宝飾商が呼ばれ、ここに控えているのだ。急な予定のために衣装の新調は間に合わないので、装飾品のみを誂えることになった。プリンセスは固辞したが、国王の強い勧めによりようやく首を縦に振ったのだった。
「じゃあ、これにするわ」
プリンセスはテーブルの上の数々の装飾品から、シルクのバラとオパールを組み合わせたヘアピンと、そして先ほどから手にしていたレースのストールを選んだ。
ね?プリンセスはアルバートに向かって目だけで頷いた。自分が気に入ったならそれでいいではないかとは思ったが、選んだ髪飾りとストールはきっと…
「私もそれが一番お似合いかと!」
ルルは両手を合わせて喜んだ。自分が最初にプリンセスに勧めたものだったから。騎士団長は苦々しい面持ちで睨んだが彼女は気づかず、プリンセスだけがこちらを見て小さく笑っていた。
改めてお試ししましょう、と侍女と女性のテイラーに連れられてプリンセスは用意してある衣装のある次の間へ消えて行った。
やはりもうしばらくかかりそうだ、とアルバートは腕を組みテーブルの上を眺めた。プリンセスが選んだものよりもずっと豪華で煌びやかなものが幾らでもあるのに。多分それらも彼女に似合うだろう。なのにそれらを選ばず手にもしてなかったところが彼女らしいと思った。
眺めているうち、それらの一つにアルバートの視線が止まった。よく見かける宝石とは違う、淡い輝きの乳白色の石。金の縁取りに嵌められた小さな石を彼は見つめていた。
「なにか気になるものがございましたでしょうか?」
側に控えていた男の宝飾商が、騎士団長に声をかけた。
アルバートは自分の私室に来ていた。
侍従がきちんと掃除を終えた状態で部屋は静まり返っていた。 ぐるりと見渡して、もう一つの扉へ向かう。
自分の部屋なのだから何も気にすることはない筈だが、静かにノブを回し音を立てないように少しだけ扉を開けて寝室へ体を滑り込ませた。
誰も、いない。だが。
明らかにその部屋の様子は違っていた。ベッドはきれいに整えられたままだが、その奥の本棚をみると、所々隙間が空いている。アルバートはゆっくりと本棚に近づき、床に落ちている一冊を拾った。
「どこにいるんです?プリンセス」
返事はない。ベッドの下を覗いてみると隠したつもりなのか、抜き取られた本が並べて置かれていただけだった。クローゼットか?と思い開いてみるがそこにもいなかった。
「…プリンセス?」
どこに隠れているんだ、と窓の外も見てみたが、さすがにそこは人の体を隠せるような場所ではない。振り返ってもう一度本棚に視線を戻す。ところどころに出来た本の隙間の位置と間隔を眺めると、もう一度そこへ近づいた。
「プリンセス、いい加減にしてください」
アルバートは本棚を見上げた。全く信じられない話だ。
「木に登るどころか」
アルバートは盛大に息を吐いた。
「本棚の上に登るとは。貴女は馬鹿ですか」
確かに人一人、プリンセスくらいの体なら余裕で乗ることが出来るほどの大きさの本棚ではあったが。それは本を置く為の棚で人を載せる棚ではない。
「だーって。普通に隠れたらすぐに見つかっちゃうじゃない?」
本棚の一番上に、寝そべるように体を横にし膝を曲げて両肘を着いてこちらを見下ろすプリンセスがいた。
プリンセスは降りる気配を見せていない。ドレスの腰のリボンがほどけて棚から垂れている。
「…猫ですか」
「にゃあ」
その可憐な鳴き声に、アルバートは思わず口元が緩みそうになるのを慌てて咳払いで抑えた。ここはきちんと戒めなければいけない。ウィスタリアの教育係に少なからず同情した。
「ふざけてないでさっさと降りてください」
そっぽを向いて、片手で頬杖をつきながらもう片方の手で解けたリボンを持ってくるくると振っている。猫のふりを続けるつもりなのか。
「そのまま飛び降りればいいでしょう」
どうせ下はベッドだ。そのつもりでプリンセスもよじ登ったに違いない。が、いつまでもこのままでは時間を無駄にしてしまう。
「…マリオン!」
「えっ?」
プリンセスが驚いた瞬間、彼女の肘が棚の上から外れて体のバランスを崩した。
「きゃ…」
そのままベッドの上にどさっと落ちたかと思うと…運悪くそこはアルバートから向こう側のベッドの端で、プリンセスの体はさらに床の上に転がり落ちてしまった。
硬いもの(頭)がぶつかる鈍い音とともに「いったあ…」というプリンセスの「人間」の言葉が聞こえてきた。
マリオンのそばに駆け寄ると、彼女は床に仰向けに寝転がったままだった。長い髪が彼女の顔を覆い隠して、紅い唇しか見えない。
「着地が下手な猫など聞いたことがない」
小さな笑い声がその唇から洩れた。
「大丈夫か?」
アルバートは膝をついて、覆いかぶさるように真上からマリオンの顔を覗き込んだ。
「うん。失敗失敗」照れ隠しの言葉と共に唇から舌先が小さく覗いた。
ゆっくりと指でマリオンの顔にまとわりつく絹糸のような髪を払いのけてゆく。少しくすぐったそうに閉じた瞼をそっとなぞり、ほんのりと朱に染まった頬を撫でた。
「どうして名前で呼ぶのよ」
ぱちっと開いた瞳にアルバートの顔が映った。このままその透き通る蒼に呑まれそうだ。
「…ここには私と貴女しかいないから」
マリオンは自分の頬を撫でる手を掴むと、唇を寄せてそのまま彼の掌に「ずるい」と呟いた。
「何がずるいと言うんですか」
アルバートの掌の中で唇が小さく動く。瞳は再び閉じられた。
「聞こえない」
顔を近づけて、唇から手を離すとそのまま両手でマリオンの頬を包み込んだ。
「聞こえない、マリオン」
「なにも言ってないもん」
鼻と鼻が触れる位置まで顔を近づける。
「アル…起こしてくれるんじゃないの?」
そう言いながらマリオンは彼の首元へ手を伸ばした。
口づけの合間にマリオンが視線を窓の方に向けているのに気づいた。こちらに引き寄せ唇を重ねる。そして頬へ耳元から首筋へ、口づけながらマリオンの体を辿っていく。
「何を見ている」
マリオンの手がアルバートの髪を撫でる。
「月が…ほら」
明るい水色の中に半月が浮いていた。空の色にそのまま溶けて消えてしまいそうな儚い白い月だ。
「貴女がそんなに月が好きだとは知らなかった」
「ただ…前にも、ここから見えたから。それだけ」
あの青いしじまの中の、上擦る囁きと乱れ絡む吐息が耳に蘇る。
そして今、彼女の白い肌を照らすのは月ではなく陽の光だ。幻のようにあやふやだった輪郭は鮮明に映し出されて、目の前のマリオンに重なる。
「アルバート?」
ふいに体を起こした彼にマリオンは怪訝そうな顔をしつつ、自分も体を起こして床の上にぺたりと座り込んだ。
「貴女は本当にひどいプリンセスだ」
そう呟くと、立てた片膝の上に顎を乗せて瞼を閉じる。
「サロンの招待を蹴ってこんなところに来るとは」
「いけなかった…かしら?」
「勿論」
「エミールがね、教えてくれたの。アルが今日の午後から…」
アルバートは己の従騎士の軽率さを口の中で罵った。
「聞いちゃいけなかったのかしら。謝った方がいい?」
「…勿論」
普段は勝ち気極まりないプリンセスが、なぜか神妙な面持ちでおずおずと訊ねる様子から、自分が相当に不機嫌な顔をしているらしいことに気づいた。
「ごめんなさい」
違う。マリオンはおもむろに立ち上がった。背を向けて乱れた衣服を直し、髪を手で後ろへ流して整える。
「でも、アルをちょっと驚かすことができたから、まあいいか」
違う。彼女は振り返り、こちらを覗き込んでにっこりと微笑む。
「部屋に戻ります」
違う、そうではない。
弾かれたように立ち上がり、咄嗟にマリオンの手を掴んでいた。
「アル?」
貴女は本当に勝手すぎる。
それが声になって届いたのか、ベッドの上に押し倒されながらもマリオンは薄く笑って、アルバートのネクタイを引き解いた。
その眼差しは、これ以上ないくらい胸の奥を締め付けて離さない。彼の内を深く抉るように暴きだす。惹き込まれるままに噛み付くような口づけを繰り返し、服を脱ぐのも脱がせるのももどかしく、 微かに震えるマリオンの身体を抱き込んだ。
「…どうして?」
余裕のない愛撫に身を捩らせながら、掠れた声でマリオンは訊ねる。答えなどとっくに知っている筈なのに。そして、その問いへの答えは変わることはない。
「貴女が欲しい、それだけだ」
それ以上の、決定的な一言の代わりにアルバートは僅かに開いた彼女の膝を割り、身体を重ねる。
昼の光の届かないその影の中で、愉悦の波に吞み込まれ揺られながら。
ベッドの上に盛大に散らかった服や掛布の中から、ようやく眼鏡を探しあてて掛けなおすと、マリオンはアルバートの外套の裾を握ったまま眠っていた。そのあどけない寝顔のどこに、さきほどまでの恍惚に耽る艶めいた表情が隠れているのか。おさまった筈の身体の燠が燻り始める前に、彼は服を纏い始めた。
外套は…と、マリオンを見つめて小さく息をつくと、彼女の背中に掛けておくことにした。
一旦ベッドから離れ本棚の脇の書斎机に向かう。引き出しの取っ手に手を掛けたところで振り返り、ベッドの上で人の服を布団に丸まっている眠り姫を眺めた。
「半貴石ではございますが、プリンセスにも一度ご覧頂きたいと思いまして、お持ちしました」
宝石商は目を細めて騎士団長を見上げた。
「珍しい石なのか?」
「珍しいと言えばそうかも知れません。これは月長石といいます。今回稀に見る高品質の石が入りましたので」
見た目の通りその色と輝きが月の光のように美しく…などという商人の説明の言葉は遠ざかり、彼の脳裏に浮かぶのはあの青白い晩のことだった。
「ネックレスよりも、チョーカーの方がよろしいかと思いますわ」
突然背後から若い女の声がしたので振り返ると、テイラーより一足早くプリンセス付の女官が戻ってきていた。意味ありげに口の端に笑みを浮かべている。嫌な予感しかしない。
「なんのことだ」
「プリンセスは金属の鎖がお好みではないのです。リボンにしていただけますか?」
何を勝手に頼んでいるのだと呆気にとられていると、女官は小首を傾げて騎士団長を見上げた。彼の瞳をじっと覗き込む。
「そうね。ベルベットがいいわ、うん。セピア色のベルベットにしてくださる?」
宝石商は女官と騎士団長を交互に見やりながら「かしこまりました」と頭を下げた。
「貴様…」
「アルバート様? ルルはアルバート様のお手伝いをしただけにございます」
悪びれもせず、澄ました声でさらっと返し
「きっとお喜びになりますよ」
と、ごくごく小さくアルバートにだけ届く声で付け足した。
午後の陽が西に傾き始めた頃。
「…アル?」
プリンセスが目覚めたようだ。細く掠れた声で自分の名を呼ばれるのは妙にくすぐったい。
窓辺のソファで読んでいた本から目を離しベッドを見ると、プリンセスの身体がもそもそと動くのが見えた。彼の外套を被ったまま半身を起こし、ぼんやりとしているようだ。何やら首の周りをさすり、自分の胸元を覗き込んでいる。気づいたのだろうか。
「マリオン」
今度はこちらから声をかける。マリオンが返事をするかわりに身じろぐと、肩に掛かっていた外套がするりと落ちて、白い背中が露になった。そしてゆっくりとこちらを向いて
「にゃあ」
と鳴いた。
彼女の白い胸元には、月の光を閉じ込めた石が淡く煌めいていた。
天空のましろの月はとうにその姿を隠しているのを、二人は知らない。
fin.
初出:2013年10月29日
Per te sogno non finito と同時に書き始めたんですね、これ。で、途中で詰まっちゃったんで、finitoの方を先に仕上げたんですけども。
そして、その後書き始めたらなんとなく続編のようになってしまいました。同じシチュを繰り返しているっていう。あ、タイトルは「お気に召すまま」です。ナニがお気に召すのだ、教えてこの頃の私。
このテキストを書いていた頃は、アルバートの本編配信の期待が高まっていた中、シドの告知がされてガッカリー!だったんじゃなかったかな。仲間内の間で、ですけど。懐かしいな。
本編未配信のキャラクターを好きになると、本編がなくて色々寂しくはあるんですけれども、断片的な情報をかき集めて触媒にし、大いなる作業に没頭出来る(妄想)という楽しみもあるんですよね。って、それは少数派かも知れませんが。
長らくサブキャラであった彼も無事本編が配信されて、しかも良いストーリーと来れば嬉しいことに間違いありません。
本編待ちの暇つぶし(?)に書き綴っていたこのテキスト群、更新途中のものは完結させてからお役御免としたいと思います。