青く澄み渡った空の上空に、白い羽根のような巻雲が流れていく。
シュタイン王国騎士団長アルバート・ブルクハルトは、眼鏡の縁をそっと押さえて小さく息をつく。
国境の唐檜の森には大きな天幕が幾つも張られ、騎士団は二個中隊が待機している。
南のウィスタリア地方は豪雨だと、伝令が報告して来たのは2日ほど前のことだった。昨晩未明には天候が回復したということだが、果たしてやって来るのだろうか。いや、来なければならないのだ。
シュタイン王国とウィスタリア王国の友好条約調印式が、今日執り行われるのだから。
国境を挟んでちょうど1マイルほど先に、ウィスタリア騎士団の駐留天幕がある。が、まだ主が到着していない。
「アルバート様。ウィスタリアより急使です」
声をかけられた騎士団長は、視線を空から地上に戻した。明るい所を見続けていたせいで、視界が暗く反転した。瞼を閉じゆっくりと開くと、眼前に従騎士のエミールと見知らぬ騎士が立っていた。
エミールがさっと敬礼する。その隣のウィスタリアの若い騎士は腰を下げ、片膝をついた。
「余計な挨拶は結構だ。用件のみ述べよ」
「は。ウィスタリア騎士団ニコラ・ダヴィア、謹んでお伝え申し上げます。本日早朝、プリンセスが乗られた馬車が脱輪致しました。先日の雨の影響で道悪く…ぬかるみを避けたはずみに踏み外した模様です。幸い馬車の転倒はありませんでした」
騎士団長は瞠目した。
「プリンセスは、無事なのか?」
「はい。『大丈夫だ』と。『遅れてしまいますが、必ず参ります』と、プリンセスより直截賜ってまいりました。こちらへの到着時刻ですが…」
一瞬ウィスタリア騎士の声が遠ざかり、花咲くような笑顔とそして、やわらかなメゾソプラノの声が彼の耳に蘇る。
「大丈夫だから、アルバート」
ウィスタリアのプリンセスは、国を守る為無実であることを証明する為に、自らシュタイン王国の「人質」となった。彼女は国にかけられた誤解を解く為に、事件の調査にも同行し、城外視察や会議に出てはいるものの。今回の事件により仮想敵国の国主代理と判断されている以上、実際はやはり人質として軟禁状態であった。
自国の側仕えの女官も下女もつけず、一人きりでこの国にやって来たプリンセス。事件に関係する公務同行や会議のないときには、宛てがわれた部屋で過ごすことになる。無論、城内ならばある程度の範囲を出歩くことは出来る。が、それは必ず監視係をつけられてのものだった。そして外国の慣れない地で敵と見なされながら過ごすことは、窮屈なだけでなく、心情的にも重く苦しいものであろうことは簡単に想像出来た。
城内の東庭園から もプリンセスの滞在する貴賓室はよく見える。城郭の内側に面した館の2階、誰からも分かる位置にあるのは、監視しやすい為だ。だが、「人質」としては破格 の待遇でシュタインは彼女を扱っていた。最高の客室を誂え、不便の無いよう身の回りの用意も全てこちらで揃えているのだ。多分、ウィスタリアにいるときと変わらない内容で。単純に国賓として接待するだけならば、まだ大分楽だったはずなのだ。事件解決の兆しは見えて来たが、まだしばらく時間はかかりそうだ。
若き騎士団長は修練棟に向かうため、 この庭園を横切ろうとしていた。
貴賓室の張り出し窓に金色の影が見える。プリンセスが外を眺めているのだろう、と騎士団長は思った。会談の後の燃えるように強い眼差しを思い出す。指の先が真っ白になるほどに自分の両手を握りしめて震えを押さえていた、あのときの顔。不安と恐れの中でも、ただひたすらに真直ぐこちらを見つめていた。だから、 こちらも目を反らすことなど出来なかった。
そんなことを思い出しながら、やがてプリンセスの部屋の真下まで辿り着くと、足を止めて見上げた。
外を眺めていたプリンセスはこちらに気づいたのか、視線をこちらへ降ろした。ガラス越しに目が合う。金色の長い髪を結いもせず長く垂らし、紺色の質素な、まるで修道女のようなドレスを身に纏っていた。あのときとは違い、何の感情も読み取れない。それでもこちらを真直ぐに射抜くような視線だ。透明な青い眼差しが彼を捉えて放さない。彼は瞬きのかわりに眼鏡を指で押し上げた。すると、プリンセスはふいっと奥へ姿を消してしまった。
騎士団長は嘆息する。彼女は自分にだけ笑顔を見せない。
その翌日。
執務室にほど近い中庭のベンチにユーリとプリンセスが並んで座っていた。このまま行けば、彼らが気づくだろう。こちらから声をかけるのもなんとなく躊躇われて、そのまま歩みを止めてしまった。
「じゃあ、今度料理長に頼んであげるよ」
「ええ?いいの?」
どうやら晩餐のデザートについて話しているようだ。
「せめて食事くらいはマリオン様が望む通りにしてあげたいし」
「ありがとう、ユーリ」
プリンセスがユーリに向かってにっこりと微笑む。
「うん。その笑顔が見たかったから」
ユーリは彼女の頬にかかる髪を指でそっとすくって耳にかけた。
プリンセスの微笑みはやがて小さなはにかみに変わり、顔を俯かせ囁くような小さな声でユーリに何かを話している。
「…うん。俺、マリオン様の力になりたいから。大丈夫だよ」
プリンセスの肩をそっと抱きながらそう答えて、ユーリがこちらを向いた。
「やだなあ、アル。立ち聞き?」
プリンセスははっと顔を上げてアルバートを見た。またあの透明な視線かと思ったが、単に驚いたような、そんな顔だった。
「ユーリ、ここはウィスタリアじゃない」
「知ってるよ。それがなにか?」
「貴様は自分が何であるのか忘れたのか」
「忘れるわけないよ」
厳しい表情の騎士団長に対し、ユーリは笑顔を崩さない。
「いくらゼノ様の庇護があるからと言って、そんなふるまいを晒していれば…」
「宮廷の妖怪爺どもが黙っちゃいない、でしょ。わかってるって」
プリンセスは目を丸く見開いてユーリを、そしてアルバートを見上げた。
「どこにもいるのね妖怪って…」
ぽつりと呟いたのをアルバートは聞き逃さなかった。片眉をぴくりと上げてプリンセスを見下ろすと、彼女は肩を竦めた。
「失礼」とアルバートに軽く首をかしげ、ユーリの方を向く。
「でも、ユーリ。ブルクハルト卿のおっしゃる通りだわ。わざわざ目に留まるようなことしない方がいいに決まってる」
プリンセスはベンチから立った。
「今日は、もう充分息抜き出来たし」
「庭園に行かなくていいの?」
うーん…プリンセスは両手を上に挙げて大きく伸びをすると 、ふうっと息をついてユーリとアルバートを交互に見つめた。
「うん。また今度…があったらね、そのときでいい」
ね?とユーリの瞳を覗きこんで微笑み。
「ブルクハルト卿、ご忠告ありがとうございました」
両手を脇に降ろしドレスの裾を軽く摘み、膝を曲げてお辞儀する。
「…いえ、礼には及びません」
顔を上げたプリンセスと目が合う。口元だけに笑みを浮かべ、相変わらずの眼差しだ。
「あれ、どうしたの?二人で黙って見つめ合っちゃって」
ユーリがからかうような言い方をしたせいなのか、プリンセスはぷいと目を反らした。少し耳が赤い。
「おかしな言い方はやめろ」
それから、と。騎士団長は一旦言葉を切った。
「アルバートで結構です、プリンセス」
「あと、二刻ほどで到着するようです」
騎士団長は国王に報告する。
「そうか。プリンセスが無事でこちらに向かっているなら、問題ない」
天幕の奥で国王ゼノは椅子に座り、書類を読んでいた。傍らのテーブルには幾つか書簡が乗っている。明り取りの窓から差し込む昼の光が、ゼノの整った顔に濃い影を落とす。
「王宮を離れて、のんびりする時間を作ってくれたプリンセスには感謝しなければな」
と目元を緩め、手にしていた書類をテーブルに放ると頬杖をついて騎士団長を見上げた。
「そうだな、アル。久しぶりに一局どうだ?」
「チェスをお持ちに?」
ゼノは天幕の奥に視線を送った。すると控えていた小姓がトランクを開け、チェスセットを取り出すと、恭しい歩みでこちらへ持って来た。
「どうせ、出発時から待つことになるのはわかっていたからな」
「そうですね…」
アルバートは用意されたもう一脚の椅子に座り、チェス盤を広げた。
to be continued...
→野ばらのような、あなた II
初出:2013年8月29日