Apr 10, 2014

苦くて、甘い。02

いきなり深く口づけられて、マリオンはうろたえた。
こんなの知らない。
こんなアルバート、知らない。

唇がわずかに離れたとき
「やめて…」
という声がアルバートの耳に届いた。
弱々しいけれど、うるんだ瞳はまっすぐにこちらを見上げて睨んでいた。なのに、止めるどころかより力を込めてマリオンの動きを抑えようとする自分がいた。
「痛っ!やめ…っやめてってば!馬鹿っ!」
比較的自由だったマリオンの足がアルバートの足を蹴った。その瞬間、掴まれていた手の力が緩んだ。
「痛いっていってるでしょ!」
同時に乾いた音が辺りに響く。熱くなった左頬が打たれたのだと気づいた瞬間、二発目を繰り出さそうとするマリオンの手を素早く受け止めて避けた。
アルバートはゆっくりと手を離した。

「・・・すみません」
俯いて、それだけ告げると体を起こし、離れて力なく腰を下ろした。両手で顔を覆い、彼の表情は見えなくなった。
 マリオンは小さく息をついて空を見上げた。ここに来たときは水色だった空が、淡いラベンダーに変わろうとしている。鼻の奥がツンとした。
「・・・痛いんだけど」
マリオンは呟く。
「背中、痛いんだけど!」
仰向けのまま、目をぎゅっと閉じて声を張り上げた。 両手を空に向かって上げて。アルバートは顔を上げてマリオンの方を向いた。
袖がめくれてしなやかな腕が見えていた。まっすぐに伸ばされたその手を、おそるおそる握り、マリオンの体をそっと起こした。

「申し訳ありません。もう・・・しません」
 当たり前でしょ!と、思うのにそれに対する返事は
「アルバートの馬鹿!」
だった。
どうにも押さえられない気分のまま立ち上がり、アルバートの脇を抜けて東屋に向かう。さっさと行くつもりが、途中で面白半分に抜いていた枯れ草に足を絡ませ、躓きかけてしまった。
「こっちに、来ないで!!」
近づいて来ようとするアルバートを睨んで制する。アルバートはその場にぴたりと立ち止まった。
「服、着直すんだから! だから、あっち向いてて」


と言って始めたものの。
ひとりきりで鏡もないところで、どうやってこの服の乱れを直せばいいのか。
とにかく背中と腰の後ろで結ばれたリボンをほどいて、土ぼこりと草の葉を払い落とす。
ひたすら服を叩いているうちに溢れかけていた涙はひいて、ひんやりとした風に手を止めた。そよそよと、髪が頬を撫でていく。
埃の汚れは叩いても完全には取りきれず、 やたらに捲り上げたり、押さえつけられたりしたせいか、妙な皺がたくさんついてしまっている。
本当に木登りだけでこうなったのか?とルルが問いつめて来るのは確実だろう。
アルバートが来たとき、すぐに降りればよかったんだ。
ちょっと困らせてやろうだとか、からかってやろうだなんて、考えた自分が馬鹿だった。今まで何回も繰り返して、何回も素通りして終わっていたから油断した。
ここまで、と引いた線を、この間越えられてしまったのに。
東屋から少し離れたところに、アルバートの背中が見える。何故待たせてるんだろう、先に帰ってもらえばいいのに、そうしない自分は一体何なのだ?
「あの・・・」
「なんでしょう」
振り返らずにアルバートが答えた。気持ちよりも先につい声をかけてしまった。どうしよう。
「先に、戻ってていいよ、もう」
「なぜ?」
「なぜって・・・」
マリオンは口ごもる。
「まだ、時間かかっちゃうから。私がここにいるの、わかればいいでしょ?だから、先に・・・」
アルバートは盛大に息をついた。
「そうではなく」
 マリオンは言葉を遮られて、リボンを弄る手を止めた。
「時間がかかるのなら」アルバートの声はひどく静かだった。
「手伝え、と何故言わないんですか」
えっ?マリオンはそのまま固まってしまった。
服を、着直すのを、手伝う?誰が?アルバートが?!待って!
それは困る!と顔を上げると、既に目の前にはアルバートが立っていた。
マリオンが履き損ねた靴を持って。

「言いたいことがあるのはわかりますが、このままでは本当に日が暮れてしまう」
 アルバートはさっさとマリオンの後ろへまわると、有無を言わさずリボンを結び始めた。
「ちょっ・・・」
「大人しくしていてください」
手際のいい動きに、マリオンは黙りこんだ。さっきのさっきなのに、この切替の早さって・・・などと半ばあきれ、半ば感心していると。
「自分のことは自分でする、という人が一人で脱ぎ着できない衣装を着るとは」
「それ余計だから!」
後ろに向かって肘鉄を喰らわせようとしたら、くるりと向きを変えられ
「あなたも大概に余計だ」
と、肘を押さえられてしまった。慇懃無礼な普段と同じ態度に、逆にほっとする。
「出来ました。髪はどうしますか?」
「・・・別にいい。ありがと」
マリオンは頭の左右に結んだリボンをほどいた。金色の長い髪をおろし、ふるふると頭を振って髪を背中へ散らす。やわらかに波打つ髪は淡く輝いていた。
「これでいいから」
口の端にわずかな笑みを浮かべる。

惹き付けて止まないその微笑を。今、この自分に見せるのか。
つくづく、ひどいやつだ、とアルバートは思った。


「痛た・・・」
「どうしました?」
マリオンは石のベンチにへたり込むように座わった。ベンチの上に右足を乗せて踵をさすっている。
「さっき、木登りしたときに、どこか引っ掛けたみたい」
アルバートはマリオンのそばに屈み、その右足首を掴んだ。
「ひゃっ!!」
「ああ。擦り剥けていますね」
「触んないでよ」
というマリオンの声をアルバートは無視して足首を持ったまま、もう片方の手でコートのポケットをさぐった。
白くて華奢な足。そのまま地につければあっというまに傷だらけになるだろうに、構わず裸足で踏み入れる。
「ひどいプリンセスだ」
つい、いつもの調子で呟いてしまったが、マリオンは黙ってアルバートの手を見つめているままだった。
取り出したハンカチで傷を覆うように踵を包んで端を結ぶと、ありがとう、と小さな声が返って来た。
その声は反則だ。越えてもいいのかと錯覚しそうになる。


マリオンの顔をじっと覗きこんだ。
「何?じっと見て…」
立ち上がってマリオンの隣に座ると、アルバートはおもむろに手を伸ばし、指先でマリオンの目尻を拭った。
マリオンの肩がかすかに揺れる。アルバートは更に顔を近づけた。
「顔も、汚れてた・・・?」
マリオンはちょっとおどけて小さく笑ったが、それがひどくぎこちなく見えた。怯えているのならごまかさず離れればいいし、そう言えばいい。
けれど、覗きこむ自分をまっすぐ見つめ返してくる。
拭ったものの、それは取れなかった。もう一度指先で触れると、マリオンはわずかに顔をしかめる。小さな切り傷だった。
「こんなとこまで怪我をして」
乾いた血が肌にこびりついていたらしい。
「・・・これはアルバートのせいだと思う」
 マリオンがぽつりと呟く。
「さっき、アルバートが・・・」
囁くような、自分を呼び寄せるような。
だから、そういう声はやめて欲しいのに。


かすかな鉄の味は、涙と同じくらいに甘い。

マリオンの頬に手をかけると顔を背けられたが、掌の中に彼女の唇を感じたので、そのまま引き寄せて目尻に口づけた。
舌でその傷を拭う。
「アルッ・・・」
みごとなほどに紅く染まっていく顔を眺めていると、マリオンはきっと睨みあげて手を伸ばし。
そっと、アルバートの眼鏡を外した。
「見ないでよ」
それは、抗議にも拒否にもならない。
お互いの息がかかるこの距離で、見えないものなどあるものか。
「落とすなよ」
なにか言おうとするマリオンの声を、アルバートは唇で塞いだ。
眼鏡を持った手は空を切り、やがて力なく垂れ下がると、草の上にその眼鏡を落とした。



「もうしない、って言ったのに・・・」
濡れた唇から溢れる言葉が、アルバートを繰り返し引き寄せる。



fin.

初出:2013年7月11日



このあと、プリンセスはアルバートに抱っこされて帰城しました。何時に着いたのかは知りません。