「というお達しを陛下から賜りましたあッ!!」
ルルはあわててドレスの裾をつまんで一礼する。
顔を上げたその先の、テーブルに積まれ無造作にページが開かれたままの本達の向こうに、およそレディらしからぬ格好で本を読むプリンセスの姿があった。
ウィスタリアからついて来たこの元気あふれる女官を、プリンセスはちらりと一瞥した。
「ふう~ン。それじゃあ借りたコレ、結構おもしろいから読んじゃおうかな」
ソファに片足を乗せてその膝に頬杖をつきながら、もう片膝に乗せた分厚い本のページをめくる手を休めない。
「シュタインの女官がみたらひっくり返りますよ、そのお姿」
レースのペチコートがドレスの下から覗いている。
「いいの、これ見せペチだから・・・っていうか、そんなの今更。でしょ」
パタンと音を立てて本を閉じ、ソファの脇に置くと足を降ろし、もそもそと足先で床をまさぐった。
「・・んもう。お靴はこちらですよ!!」
ルルは自分の足元と、テーブルの下に転がったプリンセスのミュールを拾い上げた。
「ありがと、ルル」
ルルが履かせてくれるのを眺めながら、プリンセスはふう、と小さく息をついた。
この子はきっと後をついて来るに違いない。
「そうだ。ご褒美として、あなたにも自由時間を進呈しましょう」
とてつもなく綺麗な微笑をうかべてみせた。
お供します!!という女官に、適当なお使いを言い渡し(無理矢理置き去りにして)、プリンセスは散歩へ出た。
この間は東の庭園に行ったから、今度は西に行ってみよう。ルルには悪いが、たまには一人でぼんやりしたいのだ。
「向こうの林の小道の先にも小さな庭園があって。そうだな、マリオンさまの好きそうな木があったかな?」
ユーリが意味ありげに小さく笑ったのを思い出したのだ。
手入れはされているけれど、あまり人が通らないのか、石畳の隙間のあちこちに小さな草が生えていた。
「なるほどー」
マリオンはうんうん、と頷く。
「これはいいカンジかも」
小道の石畳は途絶え、林はやがて灌木の茂みとなり、ドレスの裾を枝に持って行かれないよう気をつけながら歩いていくと、突然開けた場所に出た。
「ここかあ」
小さな泉と石造りの東屋。東屋の横には大きな楡の木が立っていた。
花壇や鉄柵があるものの、世話をされていないのか植えられたものか自生なのかわからない植物が茂っている。
「お城から離れ過ぎてて、放置されているってこと?」
枯れかけた草の下に、若緑の芽がみえる。
「それとも、わざと?」
マリオンはかがんで枯れ草を引っ張ってみた。力を入れて引くとごっそりと藁束のように草が毟れて、花壇の縁石と黒い地面が見えた。そしていくつもの小さな花と思える草の芽が姿を現した。
「ヒミツの花園ごっこができそう」
腕組みしながら、緑の芽を眺めて。
「でも、ちゃんとした花園になるまでは、いられないか」
予定では、シュタイン滞在はあと2週間だ。
泉の周りの花壇から離れて、大きな楡の木の下までやってきた。
目を細めて、振り仰ぐ。
「園芸ごっこより、こっちだよね」
丸い葉がいくつにも透明な緑に重なって、真昼の光を柔らかくマリオンの頭に落としていた。
ミュールを脱いで背中のリボンに挟むと、ドレスの裾を思い切りたくし上げてそれも腰のリボンに挟み込み。
「ドレス着てるから、ムリでしょうって?ノンノーン舐めてもらっちゃ困りますよっと」
木の幹にちょうどよい位置に窪みをみつけると、慣れた様子で足をかけた。
ウィスタリアのプリンセス付の女官、ルルは厨房から戻るところだった。
西日の射し始めた回廊を小走りにかけて行く。
「いっけなーい。つい話し込んじゃった」
足を止め、手に抱えた籠の中を覗いた。プリンセスの好きな焼き菓子と、この国名産という果物が入っている。
シュタインの男共は、ウィスタリアと違って大抵いつみても仏頂面なんだけど、声かけてみると意外とチョロいのよね。
昨日の晩餐のデザートが素晴らしかったのでぜひお礼を言いたい、と厨房に乗り込んだときの戦利品を眺めて、にんまりと笑った。
それにしても。そろそろ午後のお茶の時間には遅い時間になってしまう。プリンセスは部屋に戻って来ているだろうか?
「おい」
「ヒャッ!!」
いきなり背後から低い声。
これは、ひょっとして。おそるおそる振り返ってみると。ああ、やっぱり背の高いインケン眼鏡男(プリンセス談)だ。
「ご、ごきげんよう。ブルクハルト様。廊下走ってすみません!!」
先手必勝!謝り勝ち!とばかりに、ルルは大きく頭を下げた。
「いや。…お前の主人もそれくらい素直ならいいのだが」
きたよ…と思い、なおも頭を下げてルルはやり過ごそうとした。
「部屋の扉は開けっ放し。読みかけの本は開いたまま」
うわ、失敗した!それはマリオン様じゃなくて私が片付け損ねてただけなのにッ!! ルルは首元からかあっと熱が上がって来るのを感じた。
「ち、ちがいます。それは私が片付けるのを忘れて」
国王の忠実なる騎士アルバート・ブルクハルトは、目を眇めてちらりとルルを見降ろした。
「マっ、マリオン様の身の周りは、私がっ、きちんとお世話をしなければ、なので!マリオン様が悪いわけじゃ…」
「ヤツは、自分のことは自分でするから!と宣言していたが?」
何故? この騎士は、どうして!いつもいつも!いちいちいちいち!プリンセスに突っかかって来るんだろう?というか、どうしてプリンセスの部屋の状態を、この人が知ってるの? ルルの頭の中の疑問符は、この日も増えつつあった。
「あれ?」
ルルは、はたと気づいた。
「あの。マリオン様は、まだお部屋にお戻りになってなかったのでしょうか?」
「だからお前を呼び止めた」
本の続きを読みたいから、すぐに戻ってくる。そしたらお茶にしよう、そう彼女は告げて部屋を出たのだ。
「マリオン様はすぐに戻ると…」
そう言ってからどれくらい経っているのだろう?
「どこに行った?」
え?たかが2時間程度なのに。姿が見えないだけで、そんな顔して問いつめないでよッ!! ルルは心の中で叫んだ。
ポスッと小さな音を立てて、ミュールが木の下に落ちて転がった。
「あ…」
どうやら眠っていたらしい。木の枝に座っているのもそろそろ辛くなって来た。周りは充分に明るいけれど、少し黄昏色を帯び始めている。
両手を上に広げて伸びをして。
「かえりますか」
降りようと思ったそのとき。草を踏む音が近づいて来た。動物だろうか? 熊…はさすがにいないだろうけど、鹿とか狐とか?枝葉が邪魔をして姿がよく見えない。
やがて、足音の主の姿が木の真下にやってきた。
「熊の方がよかったわ・・・」
黒い騎士服に身を包んだ背の高い男の姿がそこにあった。
「・・・だからマリオン様には俺が付くっていったのに。いいよ、俺が迎えにいくよ」
ユーリは執務室で書簡整理をしていた。最後の一通をぽんと箱に投げ入れると、席を立つ。
「場所は俺もわかる」
ユーリを制するように、アルバートは低く言い放つ。
一緒に引っ張って来た女官に話をさせ、ユーリを問いただして、プリンセスの行き先がわかったのだった。
「アルバートはさあ、突然なんだよね」
部屋を出ようとしたアルバートは振り返る。ユーリは机に片手をついて寄りかかりながら、ペーパーナイフを指先で軽く弾いていた。やがて、視線をアルバートに移して言葉を続ける。
「予想外のことが起こったら笑うしかないよね・・って、マリオン様が言ってたよ」
無表情なアルバートに対して、ユーリはにっこりと笑った。
「アル、これってなんのこと?」
2人の間に挟まれるように立っていたルルは、この剣呑な空気に小さく震えた。
彼は転がっているミュールに気づいて拾うと、おもむろにこちらを見上げた。
「猿ですか」
「人間ですけどー」
「分別ある人間のする行動とはとても思えないが?」
「分別あるから、目立たない場所で登ってるんでしょ」
マリオンはもう片方のミュールも投げ落とした。狙ったわけではなかったが、アルバートの足元にミュールは転がった。
「あ、ごめん」
アルバートが黙って拾うのを見て、とっさに呟いた。
「降りて来たらどうですか」
「見下ろされるのはイヤなんだね?」
マリオンは笑った。ムッとするアルバートに更に声を上げて笑う。
アルバートはこちらを正視せず、ときどきちらちらと視線を外す。何故か、気まずそうだ。
「まあ…。珍しいものが見れるのも面白いが」
見上げるアルバートの視線に、マリオンははっと気づいてドレスの裾を降ろそうとした…
その瞬間、頭の後ろに空が見えた。
「危なっ…」
マリオンは両手で枝にぶら下がっていた。
「余計なこと言わないでよー」
「黙って見ててもよかったのか」
「な…馬鹿っ!」
足をぶらぶらと振って蹴り倒してやろうとしたが、届かない。
「いいから、早く降りてください。いい加減手を放しなさい」
アルバートは両手を伸ばした。受け止めてくれるらしい。
「自分で降りれるってば」
「ケガをしたらどうするんですか」
「しないってば。だからそこからどいて」
アルバートの手は、マリオンの爪先までぎりぎり届かない。アルバートに抱きとめてもらうのなんて、まっぴらごめんだ。想像するだけで顔から火が出る。でも。
「わかった、降りる」
マリオンの言葉に、アルバートは頷いて。
次の瞬間、押し殺したような悲鳴が短く響いた。
仰向けに倒れたアルバートの上にマリオンは着地していた。
「あははははははは!だからどいてって言ったのに!」
降りると言ったマリオンは、こともあろうにアルバートめがけて、わざわざ振り飛び降りをしたのだった。
そして、マリオンを受け止めようとしたアルバートは、彼女の膝を腹にぶつけられて倒れたのだった。
「ごめんね、当たっちゃった?」
くすくす笑いながら馬乗りになったまま、マリオンはアルバートの顔を覗きこんだが。
アルバートは動かず、目を閉じたままだった。
「あ…れ? アルバート?」
打ち所悪かった?マリオンはアルバートの顔にそっと耳を寄せた。息はしているようだ。
「だいじょうぶなの…?」
マリオンがアルバートの眼鏡に手をかけようとしたそのとき。
眼鏡は掴めず、かわりに自分の手を掴まれた。
「なんてことをしてくれるんですか、あなたは」
マリオンの膝蹴りを喰らい、一瞬もんどりうってしまったものの、まあ無事に着地出来たのでよしとしたかった、が。
何故自分の上に馬乗りになったままどかないのだ。いやがらせか。
しかし、自分にかかるこの重さは悪くなかった。目を閉じたままにしていると、不安げな細い声が聞こえてくる。
やわらかな髪の感触が頬を伝い、かすかな花の香りがアルバートに思い出させた。
あのときと同じように…
咄嗟にマリオンの手首を掴んでいた。
せっかく忘れようとしていたのに。「なんてことをしてくれるんですか、あなたは」
「ごめん」
かすれたソプラノが聞こえると、澄んだ青い瞳が瞼に隠れ、長い睫毛がかすかに震えた。
「また、笑いますか?」
そういって、もう片方の手でマリオンのうなじを引き寄せて唇を重ねた。
びくりと跳ね起きようとする体を押さえて反転させて、天地は逆になった。
「ぶつかっておかしくなった?」
マリオンは呟いた。笑ってはいなかった。
「ぶつけたのは腹だ。ひどいやつだ」
細い顎を掴んで、もう一度口づける。
初出:2013年7月9日
to be continue→苦くて、甘い。02