Apr 23, 2014

Arancia Cioccolato

それは。
甘くて苦い、苦くて甘い。

「マリオン様? もうそろそろおやめになったらいかがですか?」
ルルはソファに寝そべったままチョコレートをつまむプリンセスを見て、ため息をついた。
「そりゃあ、私が山盛り持って来たのがいけないんですけど」
「ルルも食べてよ。私一人じゃ無理よ」
指についたチョコをぺろりと舐めるとのそのそと起き上がり、小さくおくびを出した。ちらり、とルルが見咎めたような視線を向けて来たが気にしない。
「息がオレンジの匂いになっちゃったわ」
「お口はチョコ色ですね」
「うっそ!」
ルルはクスッと笑って、自分の口端をつついて見せた。マリオンは慌てて口を拭う。
オレンジピールのチョコレートは、プリンセスの最近のお気に入りだ。なので、修練場から連れ戻す為の口実に用意したのだけれど。やけ食いのように頬張る己の主人に、食べ物で釣ったのは失敗だったかも…と後悔していた。そして、このデザートを力一杯用意してくれた厨房の料理人達を少々恨めしく思った。
「では、いただきます」
ルルは傍のオットマンに腰掛けて、テーブルの上の銀の皿に乗ったチョコレートをつまんだ。
「うわ、おいしいですね、これ!!」
「でしょ? 遠慮はいらないわ…というか、後は任せたわ、ルル」
ルルがにこにこしながらオレンジピールチョコを食べ始めたのを見て、ソファに座り直したマリオンは、右袖をたくし上げて眺めた。
右手はもうなんともない。言われた通りにすぐ冷やしたから。

久しぶりに振るった剣の感触は悪くなかった。むしろ気持ちいいくらいだった。本来の自分の役目からは遠く離れたことだけど、決していけないことではないはずだと思っていたのに。
公務の為に修練場を去った国王を見送って、騎士団長に向き直ったそのとき。
「まったく無茶をされる方だ」
いきなり右腕を掴まれた。
「えっ?」
驚くと同時に、痺れるような痛みが手首を走る。マリオンは眉を顰めてアルバートを見上げた。
「痛いでしょう。このまま続ければ筋を痛める」
アルバートは多分、力を込めてない。でも、マリオンはその手を振りほどくことが出来なかった。
「後半の剣のさばき方は明らかに…疲れていたな。毎日剣を握っていないのに、力任せに振り回すからだ」
あきれたような声で言われて、ついむっとして睨みつけようとした途端、手を放された。
「…大丈夫だもん」
マリオンはアルバートからそっぽを向いて手を2〜3度振った。痛いというよりも、自分の手ではないような重さが残った。
「貴女が大丈夫でも、周りはそうではない」
アルバートはマリオンの後ろを見やった。心配そうにこちらを見つめるルルの姿がそこにあった。 そして心配する以上に好奇心満々な騎士達の姿も。
「マリオン様?」
心細げな声が自分を呼ぶ。
「わかったわよ。今日はこれで終わりにする」
 アルバートの言う通りだ。正直なところ、もうこれ以上剣を握って振ることは出来そうにない。ましてや相手は騎士団長だ。なんだか負けたような気がする。敵いっこないっていうのはわかっているけれど、なんだか悔しい。
瞬きはせずに、アルバートを見つめる。
「そんな目で見るな」
マリオンにだけ聞こえる声でアルバートは囁いた。その瞬間の少し困ったような表情も、彼女の瞳だけに映った。


「ブルクハルト様がすぐお気づきになられてよかったですよ」
右手を眺めるマリオンに気づいて、ルルはうんうんと頷いた。
「大事に至らなくて、安心しましたわ」
マリオン自身の公務に差し支えるし、ウィスタリアで待っている面々を思い浮かべると、背筋が冷え冷えとするのはルルの気のせいではない。きちんとプリンセスのお側付を全うしなくては。けれど、ルルもまた「堅苦しい」のは好きではないのだ。
「次回お相手してくださるって、おっしゃってたじゃないですか」
視線を右手からルルに移して、マリオンは小さく息をついた。
「お忙しい騎士団長サマが、私ごときにつきあってくれるのかしら?」
若干…かなり拗ねた物言いに、ルルは肩を竦めた。
「もちろんですよ、マリオン様」
マリオン様を放っておくわけないじゃないですか、あの方が!と言いたいところだったけれど、それを言ったら言ったでなぜか機嫌が悪くなるのだ。いや、悪くなるのではなく、悪く見せるのだ。なんて素直じゃないプリンセス。しかし、ルルにはそこがなんとなく微笑ましく思えた。
「お茶が冷めてきましたから、新しいものをお持ちします」
ルルが席を立とうとしたとき、扉を叩く音が聞こえた。控えの間の女官の声がルルを呼んでいる。
「では失礼致します、マリオン様」

ルルが扉の向こうに姿を消したのを見ると、マリオンは再びソファに寝そべった。この後は夕刻の城下の視察がある。支度の時間はまだまだ先だ。資料の書類は、既に昨夜目を通してあるからすることもない。
「つまんないなぁ…」
ゼノ様は許可してくれたけれど、アルバートは本当に自分の相手をしてくれるのだろうか。あのときの、泣きそうな気分をアルバートに見破られたような気がして 、マリオンはぎゅっと目を固く閉じた。


再び扉を叩く音が聞こえる。ルルが戻って来たのだろう。
「どうぞー」
体を横にしたまま返事をする。扉が開いたが、いつもの「ただ今戻りましたあッ!」が聞こえて来ない。 では別の女官だろうか?
「随分と優雅な格好だな」
まさかの声に目を見開き、がばっと半身を起こした。椅子から足を降ろしドレスの裾を引き下げ、驚きの顔を極力隠してにっこりと微笑む。
「ごきげんよう騎士団長さま」
扉を背にアルバートが立っていた。いつものように黒い騎士服をかっちりと纏い、いつものように堅苦しい礼儀正しさでこちらを見つめているのはわかった。窓から差す午後の光がアルバートの眼鏡に反射して、彼自身の表情はわからない。
「ご用件は何かしら?」
肩にかかる髪を人差し指で払い、そのついでにドレスの襟元のずれをさっと直した。
「貴女の様子を見に来た」
「え?」
マリオンは大きく見開いた瞳を瞬かせた。手のことを言っているのだろうか?怪我をしたうちには入らないと思うし、アルバートだってそういう風に言ってたのに?
「様子って。いたって元気ですけど?」

いつもならずかずかと近づいて来るのに、部屋の入り口に立ったままのアルバートにマリオンは首を傾げた。
「えっと。せっかくだからお茶でも飲む?もうすぐルルが持って来るはずだし」
わかんないなあ…と思いつつも、「どうぞ」と椅子を勧めた。
「あ、そうだ。チョコレートもあるの、どう?」
「結構」
アルバートはテーブルを挟んで向かい側の椅子に剣帯を外してサーベルを置くと、マリオンの横までやってきてこちらを見下ろした。
「手をみせてください」
マリオンは少し横にずれて座りなおし、さらに「どうぞ」と掌をアルバートに向けた。アルバートは静かに隣に座ると彼女の方へ体を向けて、差し出された手を取った。プリンセスの指から、ふわりと甘い香りが漂う。
「午前中に見てくれたときも、そんなにひどくなかったと思うけど?」
 手首を持つ彼の手を、マリオンは見つめた。自分よりずっと大きくて長い指は、片手で両手を掴めてしまうのだろうな、とぼんやり思った。なんだか頬が熱くなって来たような気がする。
「こんな華奢な手で剣を振り回すとは」
「馬鹿ですか? って??」
マリオンは先回りして呟いた。
「馬鹿ではないが」
「あら、珍しい」
「向こう見ずだな、と」
「ちょっと、それあんまり変わらないじゃない、ひどい」
アルバートは小さく笑った。彼女の手を握ったまま。
「菓子を持っている方が似合う、というと怒るのでしょうね」
案の定、マリオンはムッとした顔つきになり口を尖らせた。
「あの。そりゃさっきまで食べてたけど」
「道理で」
 手を握る力がほんの少し強められて、彼女の体はアルバートの方へ傾いた。
「チョコレートと果物の匂いがする」
アルバートの視線が握られた手から、マリオンの口元に移っていく。耳の奥でとくんとはねた鼓動が早まるのを感じた。

そんなやりとりの間にも。
なぜ手を放してくれないのか、マリオンはアルバートを見上げた。
「アルバート?」
マリオンの視線を受け止めようとせず、軽く目を伏せたが、やがて眼鏡をすっと指先で押さえると躊躇いがちに口を開いた。
「泣いているかと思いました」
「ど、どうして」
思わず手を引こうとしたら、逆に引き寄せられてマリオンはアルバートの胸になだれ込む姿勢になってしまった。
「泣いたりなんか、しないもの」
そのまま額をアルバートの胸元にこつんと当てて目を閉じた。するとふわりと頭になにかが乗せられた。アルバートの手がそっとマリオンの頭を撫でた。そのままやわらかな髪にアルバートは手の平を滑らせながら頭から肩へ、そして背中へ確かめるように撫でていく。
「プリンセスがわざわざ騎士相手に己を試そうとする話はきいたこともない」
「うん。でもいるじゃない、ここに」
マリオンは顔を上げてアルバートを見つめた。見返す瞳は修練場で見たような厳しい眼差しではなかった。
「最初から…もうとっくから、わかっていたけど」
体を起こして、アルバートの肩に両手をかけて囁く。
「試さなくてもわかっていたの。そうじゃなくて、私はただ知りたかっただけだよ…」
「なにを?」
マリオンは覗き込むように顔を近づけた。答える声が言葉になる瞬間、唇が触れ合う。
「アルバートを」
 腰に回されたアルバートの腕にさらに体を引き寄せられて、マリオンはアルバートの首に両腕を絡めた。
再び唇が重なって離れるとアルバートは呟いた。
「…甘い」
 


「お待たせしましたあッ!」
ルルがティーセットの乗ったワゴンを押してプリンセスの部屋に戻って来たとき。騎士団長は腰に剣帯を回し、バックルを留めているところだった。
プリンセスはその向こう側のソファに座って、すまして冷めきったはずのお茶を飲んでいる。ルルが部屋を出たときと同じ位置だ。彼女は二人を交互に見つめた…というより睨んだ(主に騎士団長の方を)。
「ルル?顔がこわいよ??」
指摘されて、慌てて両手で頬を押さえる。
「え?あ、そ、そそ、そんなことないですよ?」
サーベルを佩き終えた騎士団長は女官をちらりと見下ろした。
「それが普段の顔だと思ったが、違うとは驚きです」
思わず顔が引きつるルルだったが。彼女が口を開く前にプリンセスは椅子から立った。
「ルルはかわいいんだから。変なこと言ってからかわないで」
そしてルルのそばに来ると、彼女の肩をがっしと掴んで「ねー?」と微笑む。
「アルバートがそう思うんなら、きっとシュタインに来てからだわ」
「は?」
「誰かさんのせいで心休まらないんだから、そりゃギスギスもするわよねー?」
ルルは一緒に笑えない。その言葉は自分宛ではなく、プリンセス自身のことなんじゃないか、とルルは思った。実際にはプリンセスはこちらに来てから全体的には「ギスギス」していない。
「女官を使ったあてこすりはやめて頂けませんか、プリンセス」
 プリンセスは、「ふん!」と一度そっぽを向いてからアルバートに視線を戻し、口角を上げてにっと笑う。
 「深読みし過ぎー」
「貴女はまったく…」
眉間を押さえる騎士団長に、ルルは慌てて告げる。
「あ、あのっ。ブルクハルト様、お茶をお持ちしましたが…お帰りですか?」
「用件は済んだ」
「あ…はい。かしこまりました」
軽く腰を落としてドレスの裾をつまみ、お辞儀する。そして二人から離れ、部屋の隅に下がった。

「アルバート。約束だからね」
扉を開ける騎士団長にプリンセスは声をかけた。 アルバートは振り返ってプリンセスを見つめる。
「貴女こそ怖じ気づいて逃げないように」
そして、そっと顔を近づけて囁いた。
「口紅がすっかり落ちてしまっている」
耳まで一気に顔を紅く染めたプリンセスは
「アルバートの馬鹿!」
と、騎士団長を扉の向こうに追い出した。


fin.

初出:2013年8月18日






「プリンセスレッスン?」続編に続きに至る幕間劇。プリンセスと女官のティータイムのひととき…のはずが。
「…甘い」の後はなぁ。30分くらいしかないからムリだろ(なにが?)
本番(えっ)は「プリンセスレッスン?」の続編で!
タイトルはイッタリアーノでオレンジチョコ。文中ではオレンジピールチョコなんだけど、そのままタイトルにすると、長いのでオレンジチョコ。
オレンジピールチョコはうまいです(´ρ`)

Apr 18, 2014

プリンセスレッスン?

その日。
シュタイン王国騎士団修練場のホールはざわめきに包まれていた。
石造りのドーム天井に剣戟の響きは届かず、代わりに騎士達のささやき声がこだまする。

「何を考えてるんですか、貴女は」
騎士団長アルバート・ブルクハルトは、目の前のプリンセスを見下ろしてため息をついた。
「見てるだけじゃつまらなくなって。ゼノ様はいいとおっしゃったわ」
ウィ スタリアの勝ち気なプリンセスは、上目遣いでアルバートを見つめる。彼の常からの冷ややかな眼差し故に、酷薄にさえ見える整った面差しに怯むことなく。一 方、アルバートは甘やかな笑みを湛えたその瞳から逃れるように、彼女の横へ視線を反らした。すると、側仕えの女官ルルは両手を合せてアルバートにお願い! ポーズだ。冗談じゃない。
「また適当なことを言って、ゼノ様の言葉を都合よく解釈したんじゃないのか?」
「またって。なによそれ。そんなことしたことないし。とにかく私にも剣を貸してちょうだい」
 ただでさえ…。アルバートは周りを見渡した。
騎士達は訓練に励むそぶりを見せながら、関心をすっかりこちらに向けている。
このプリンセスが修練場の見学に来ただけで、収まりがつかなくなるというのに。
「体を休めるな。各々、自分の勤めを果たせ」
騎士団長の声が響き、剣を打ち合う音が再び聞こえ始めた。


ウィ スタリアのプリンセスは、シュタインに来訪するなり騎士団員の訓練を見たがった。そしてどういうわけか国王はそれを許した。ときどき自分の主君の考えてい ることがわからない。確かに戦術を見せるわけではないし、団員個々の動きを見てプリンセスが用兵術を予想出来るとは考えられない。
「個人的な好奇心よ」
お茶会やダンスパーティに、その好奇心を向けていろと言いたい。多分、自分の知っているどの姫君よりも姫君らしく、認めたくはないが美しい。ただし、それは黙って立っていれば、という前提付だ。動き回る彼女はまったく持って手に負えない。
プ リンセスが見学に来るようになってから、どういうわけか団員達の動きが目に見えて良くなって来た。それは果たして喜ぶべきことなのか、アルバートは眉を顰 める。士気が高まっていると言えば聞こえはいいが、実際のところプリンセスに対して浮ついた祭り状態と見るのが正しいのだろう。
今のところ近隣諸国との関係は安定し、出兵する予定はない。極めて平和な状況といえる。 だが、油断はしていない。
早くこの状態が落ち着けばいい…それは自分自身にも言えることなのだが。

休憩中の年若い従騎士達のそばを通りかかったときのことだ。
「ウィスタリアの騎士の叙任は、プリンセスが行うらしいぞ」
「いいなあ」
「マリオン様から叙任を受けてみたいな」
「そうだ。陛下がマリオン様をお妃にすれば…」
アルバートの足が止まった。彼の気配に従士達の会話はぴたりと止まり、即座に立ち上がって敬礼する。
「今、何を話していた?」
 整列した従騎士達は、無言のまま立ち尽くす。
「何故答えない?」
アルバートの眼鏡を指で押し上げる仕草とその奥の鋭く冷えた眼差しに、従士達は尚更凍りついた。
「申し訳ありません」
「貴様らの、国王陛下への忠誠が揺らいでいるように見えるのは、俺の気のせいか?」
その後。彼らは他の団員の倍、訓練をすることになったのは言うまでもない。
プリンセスに叙任を受けたいという従士の浮かれた願望ではなく、プリンセスがこの国の妃になれば、という言葉にアルバートの心はざわついたのだった。


「ともかく。正直に言って、貴女がここにいると団員達の訓練の妨げになる。遠慮していただきたい」
アルバートはプリンセスに淡々と告げる。ここは遊び場ではない。
プリンセスは下唇をぐっと噛み、両手を握りしめて俯いた。マリオン様帰りましょう、と、普段はお調子者のルルもマリオンの袖を引き、小さく囁いている。
「私…お遊びで言ってるんじゃないわ」
プリンセスは真直ぐにアルバートを見つめてくる。その透き通る眼差しで、また惑わせる気か。
「素人じゃないもの」
は?何を言い出すのだこの姫は。アルバートが口を開きかけたとき。
「陛下がお見えになられた!」
扉近くの騎士が叫んだ。
群がる騎士達の輪が解け、静まり返ったその中から、シュタイン国王が現れた。 漆黒のマントを翻し悠然とした歩みに、皆、頭を下げてその姿を見送る。

「模擬試合のひとつでもしているかと見に来たのだが…」
「ゼノ様!」
アルバートとマリオンは同時に口を開く。声が重なった途端、2人は顔を見合わせ睨み合うと、お互いの視線を反らせた。
「アルバートに掴まったか」
笑みを含んだ呟きに、マリオンはぱっと顔を上げ、国王ゼノを見上げた。
「ゼノ様、アルバートったらひどいの!全然取り合ってくれないんだから」
何がひどいのだ。ひどいのはそっちじゃないか。
「プリンセスに危険な真似はさせられません。ゼノ様がお許しになっても、プリンセスが怪我をしないとは限らない」
マリオンをねめつけながら、アルバートは進言する。
その言葉にむっとしたマリオンを、ゼノは面白そうに見つめた。
「そんなの!やってみなきゃわからないじゃない。剣じゃなくても歩いていたって怪我するときはするのよ!」
「剣の訓練と散歩を一緒にするな。危険の度合いが違う」
「だから、お散歩以上に私、剣は使えるんだから!」
「何を根拠にそんな大口叩くんだ、貴女は」
「まあ待て、アル」
ゼノの声が アルバートを制する。
「このまま言い争っていても仕方がない。そもそもプリンセスがどれだけ扱えるか見てみれば良いだけの話だろう」
黒い眼帯に隠れ片方だけの深藍色の瞳が鋭く辺りを見渡した。ゼノはホールの隅の方の騎士見習い達をみとめると、アルバートに視線で促した。
「トビアス」
アルバートはその中の一人を呼んだ。はい、と返事するその声はまだ声変わりの来ない、あどけなさが残る赤毛の少年のものだった。こちらに小走りに駆けて来ると深々と敬礼した。
「プリンセスの相手をして差し上げろ」
マリオンはそれを聞いてにっこりとほほ笑んだ。
「よろしくね、トビアス」

マリオンはおもむろにドレスのベルトを外した。ルルが袖を抜くのを手伝う。
ドレスを脱ぎ始めたプリンセスに周囲はどよめく。さすがにゼノとアルバートも目を見開いた。
「このままじゃ不公平ですもの。あなた方がドレス着てくれるなら話は別だけど?」
 ドレスの下から現れたのは、レザーのチュニックに(とても!)丈の短いズボン、そしてニーハイブーツという出立ちだった。長い髪も一つに纏めてきっちりと編んであったのは、動きを邪魔しないためだったのか。
「マリオン様!タイツはいてくださいといったのに!!」
ルルが卒倒しそうな声で叫ぶ。ジル様にはこのことを絶対報告出来ないわ!…プリンセスの無頓着な格好に、心の中で涙を流した。
プリンセスを目の前にして、耳まで赤くしていたトビアスは、更にその姿に釘付けになった。
マリオンはそんな周囲の目をまったく意に介さず、鼻歌まじりで手袋をはめている。
わざとだろう…アルバートは苦虫を噛み潰したような顔でマリオンを睨もうとした。が。どうにも直視出来ない。ドレスとはまた違った体の線がはっきりとわかる服とブーツの間に見える白い太腿が眩し過ぎた。
「この剣を使え」
アルバートは用意させた模擬剣をマリオンに向かって放り投げた。練習用で刃と切先は落としてあるものの、重さは「本番」用とさほど変わらない。
「ありがとう」
マリオンが軽々と受け取ったのを見て、確かに剣を触ったことはあるようだ、と思った。
「剣ってこんなに重かったっけ?さすがに騎士サマが使うのは違うわね」

素人じゃない!と言い張るだけあって、マリオンの剣さばきはそれなりに優れたものだった。といっても相手は10代半ばにも満たない半人前だ。手を抜くな、と言ってはあるが女性に免疫のない少年では、彼女を止めるのは無理かも知れない。
「14になるまで、剣の稽古を受けていたと話していた」
ゼノがぽつりと呟いた。
「騎士の家の生まれだそうだが、跡目がなく家の為に剣を持つことにした、と」
それが巡り巡って、プリンセスとは。ウィスタリアは面白い国だ、とゼノは小さく笑う。
確かに、あの筋金入りのじゃじゃ馬具合はその育ちも関係あるのだろうと、アルバートは頷いた。
なのに、ふとした拍子にひどく儚い顔を見せるのだ。何故か自分と二人きりのときに。今の強気ぶりではけして気づけない、その危うさに目が離せない。
眼前に繰り広げられている模擬試合においては、マリオンの動きはそつがなく美しい。だが、所詮は型通りの演技で実践向けではない。多分彼女自身もそれはわかっているのだろう、だからここで剣を振るってみたいと言いだしたのだ。
「わかりました、ゼノ様」
では、騎士としてふるまってみせようではないか。

マリオンはトビアスから2本先取して、「勝ち」となった。
「ありがとう、トビアス」
マリオンは相手をしてくれた少年従士に、右手を差し出した。再び頬を染めて彼はプリンセスの手を握る。すると。
マリオンはそのまま少年の手を掴んで体を引き寄せ、汗ばむ彼の頬に軽く口づけた。
途端に周囲はどよめいた。羨望の声に包まれて、少年は呆然と頬を押さえて立ち尽くしていた。彼の忠誠心がプリンセスに大きく傾いた瞬間だったかも知れない。
その様子を見ていた王と騎士団長の視線には、明らかに差があった。興味深げに眺めるゼノと憮然と少年を見据えるアルバートの様子に、気づいたものはいなかった。
「なかなか見事なものだな。面白いものを見せてもらった」
ゼノの言葉に、マリオンはプリンセスらしく左の膝を軽く落としてお辞儀する。
「こちらこそ、機会を与えてくださいましてありがとうございます」
「なんだ、それでもう満足なのか」
苦々しい響きを含んだ声がマリオンの耳に届く。顔を上げると、ゼノの隣のアルバートと目が合った。
「せっかく相手して差し上げようと思ったのに」
眼鏡を指先で押し上げる仕草に、マリオンはふんッと横をむく。
「さっきまで散々ダメだダメだ言ってたくせに」
じろりとアルバートを睨んでくるけれど、それがどうしたと軽く見返す。
「ゼノ様ご自身の言葉に従い、事実を確認したまでだ」
 それを聞いた途端、プリンセスの顔に血が上って行くのが見て取れる。
「いいわ!それではアルバート。お相手して頂こうじゃないの!」
あわててルルがマリオンの体を押しとどめようとしたとき。
いつのまにかやって来ていた宮臣達が、彼らの前に進み出た。
「陛下、次の公務のお時間でございます」
お支度を、と叩頭する。
「ああ。残念だな。俺はもう行くが、気が済むまでアルと手合わせしてもらえ」
「ゼノ様!」
「プリンセスの相手は、お前が適任だろう?」
言い返そうとするアルバートを視線で制し、国王は宮臣を従え去って行こうとしたが、思い出したように振り返ってマリオンに告げた。
「あまり懸命になりすぎるなよ、プリンセス」


to be continued...


初出:2013年8月11日

Apr 13, 2014

星屑の囁き

この国でしたいことはなにかあるか?と国王が問うたとき、プリンセスは答えた。
「騎士団の訓練を見学したく思います」

修練場の中央ホールは吹き抜けになっていて、中二階のバルコニーでプリンセスは騎士団員の様子を見学することとなった。
普段、出歩くときはウィスタリアから連れて来た若い女官を伴っているのだが、修練場には一人で訪れる。
始めの頃は訝しげにその姿を眺めていた騎士達も、プリンセスが本当に「ただ見学するだけ」というのを見て取ってからは気にしないようになっていた。
その筈だった。
きっかけは、ある日1時間以上立ったままのプリンセスに気づいた一人の従騎士が、椅子を勧めたことだった。
見学を終えたプリンセスはバルコニーから降りて来て、その従騎士に言葉をかけた。
多分、椅子に対するお礼だったはずだ。
間近に見るプリンセスの姿に、騎士達は少しの間、修練の手を止めていたかも知れない。幸運にも騎士団長は国境視察に出ていて留守だったので。
翌日。件の従騎士は、初めて同期から1本を取ることが出来た。ずっと敵わなかった相手から、ついに一勝して喜びの声を上げたとき、プリンセスがこちらに向かってほほ笑んでいたのを彼は見逃さなかった。
この日もまた、プリンセスは帰り際にバルコニーから降りて来て、従騎士に声をかけた。今度は彼一人だけでなく、一緒にいた彼の仲間2〜3人とも言葉を交わした。
プリンセスが修練場を訪れるようになってから1週間を過ぎる頃には、彼女と騎士達の間はすっかり打ち解けていた。それどころか、騎士達は以前にもまして修練に励むようになっていた。

国内外の情勢が安定している現在、騎士団派遣も少なくなり団員の気も緩みがちなのだが、それに反して士気が高まっているというのは不思議な話だ、と国王は修練場を訪れてみた。
バルコニーにはいつものようにプリンセスの姿があった。
「熱心だな、プリンセス」
「国王陛下」
プリンセスは椅子から立つと、流れるような仕草でレディのお辞儀をする。
「お言葉に甘えて見学させていただいております」
「女性はこういうものには興味がないと思っていたが」
「ときには好きな女もいるのです。たとえば、陛下の目の前に」
軽く首を傾げてほほ笑む。
そういう仕草は姫君そのものなのに、どういうわけか相手が騎士団長となると雰囲気ががらりと変わる。同じ騎士のユーリに対しては、自分と同じように柔らかな物腰なのだが。それはそれで面白く、このプリンセスのおかげで珍しい展開が起こりつつあるようだ。
「ああ、構わない」
王はプリンセスに椅子に座るよう促した。
「俺は長居はしない。気にするな」

国王と隣国のプリンセスの姿を頭上にちらりと見やり会釈をした後、騎士団長はため息をつく。
「いつにもまして機嫌が悪いね、アルバート様?」
後ろから、からかうような声がする。
「用もないのにうろつくな、ユーリ」
振り返ると騎士服に身を包んだユーリが立っていた。
「ひどいな、アル。俺だって騎士なのにさ」
アルバートに一歩近づく。
「今日はゼノ様もご覧になっているというのに、どうしてそんなにしかめっ面?」
ユーリは腰の剣を抜き、その剣先をアルバートに向けた。
「ゼノ様とプリンセスが一緒だと気になる?」
「何が気になるというんだ?」
アルバートも静かに剣を抜いた。
「あはは。とぼけないでよ、まあいいか」
ユーリは自分よりも背の高いアルバートを斜めに見上げる。
「久しぶりに手合わせしてよ。今日はなんだか勝てそうな気がするな」
「軽口を叩けるのも今のうちだ」
剣のぶつかり合う音が響いた。

「真剣で?」
プリンセスは立ち上がって階下の2人を見た。
「長年の付き合いだからな、お互いの力量を心得ている。心配はないだろう」
ゼノはバルコニーの手すりに腰かけ、何でもないように見下ろしている。
 的確に打ち込んでは躱す、無駄のない動きは洗練された美しいものだった。
「あまり夢中になると落ちるぞ」
手すりから乗り出すように見入るプリンセスの体をゼノはさりげなく引き戻した。腰に回されたゼノの腕に気づいて、耳が熱くなる。
「素晴らしいのでつい…すみません」
肩をすくめて小さく笑うと椅子に座りなおす。
「どちらが強いんでしょうか?」
「どちらだと思う?」
剣を打ち合う二人の動きは全く互角のように見える。
「二人ともとても強いと思います。力は…アルバートの方があるのかしら」
「そうだな。実力としてはアルの方が上だろう。だが、ユーリは相手の油断と隙を見逃さない」
体が華奢な分、身のこなしは軽やかで攻撃はとても素早い。その上で相手の間隙を突くのか。でも、その早さに劣らぬアルバートに隙があるようには見えない。
「ユーリは、今日こそは勝てると踏んで臨んだのだろうな」
ゼノは口の端を緩めた。
「え?陛下。その言い方では、ユーリは…」
 プリンセスはゼノを見つめたが、彼は黙ったまま視線を下に降ろした。プリンセスもまた、再び階下の試合を見守った。

石の床に鋭い音が響き、剣が落ちて滑って行った。
ユーリの鼻先にはアルバートの剣先がぴたりと据えられていた。
「勝てると思ったのに」
「その慢心がお前の負けを呼ぶんだ」
 アルバートは剣を降ろして鞘に収めた。そしてこちらを眺めていた二人に会釈し、ユーリを振り返りもせず、その場を立ち去って行く。
「思った以上に、かっこつけるタイプだったんだな。まあ俺もそうなんだけど」
自嘲気味にユーリは呟いた。落とした剣を従騎士から受け取り着衣を整えると、ユーリは階上に向かって手をふった。
「ゼノ様!マリオン様!」

「アルバートが勝っちゃいましたね」
マリオンはゼノを振り返った。かすかに頬を上気させ、目を輝かせているその顔を見ないで去るとは残念な男だ、とゼノは思った。
「あんな風に剣が振るえたらいいのになあ」
ゼノは自分の耳を疑った。


跡目を失った騎士の家に生まれたのだと語った。父のことは尊敬していたので手助けになりたいと思い、自分も剣を手にしてみた、と。自分でもいけるのではと思ったが、結局は女であることがそれを叶えさせる全ての妨げになった。
なのに、今は女である故にプリンセスとなってここにいる。
「かつての夢を見せてくれるのです。叶わなかったとしても、今はそれが辛いことだとは思いません。星になれなかった欠片もまた自分なのですから」
そこまで話してマリオンは、自分が語った相手を思い出した。親でも友人でもない、ましてや。
「すみません、ずうずうしくも自分のことばかり話してしまいました」
頭を下げ、長い睫毛を伏せる。
「 お忘れください」
「何故忘れる必要がある?」
ゼノの深い眼差しに、マリオンは返す言葉を失った。
「おまえの話を聞けてよかった」
その声は低く優しい。
「陛下。ありがとうございます」
だから、みなこの国王に忠誠を誓い、従うのだ。マリオンは更に頭を下げた。
「顔を上げろ、プリンセス。それから陛下というのは無しだ、名前を呼べ」
え?思わずがばっと顔を上げた。
「ではな、マリオン。次は夕食のときに」

「マリオン様。まだ見ているの?」
ユーリがゼノと入れ替わりにやって来た。
「あ、ユーリ。おつかれさま。残念だったね」
「勝てる筈だったんだけどな」
ユーリはマリオンに手を差し伸べた。その手を軽く握ってマリオンは席を立つ。
「ゼノ様も、ユーリは勝てると思ったんだろうって言ってたわよ?」
「え?」
「ん?」
目を丸く見開いたユーリに、マリオンは首を傾げた。
「ははっ。ゼノ様にはお見通しかあ…ってマリオン様?」
ユーリはマリオンの言葉に気づいた。
「 陛下とは呼ばないんだ?」
「名前を呼ぶようにっておっしゃったわ、さっき」
「ふーん」
「どうしたの?」
「シュタインとウィスタリアの距離が縮まったなあって思って」
「そう思う?」
「思う思う」
やったぁ外交は順調ね!とばかりにガッツポーズで喜ぶマリオンを眺めながら、 ユーリは思いついたように笑い始めた。
「あ、そうだ。マリオン様、今度アルがいるときにゼノ様の名前を呼んでみてよ」
「え?どうして??」
「そのときのアルの顔を見たいんだよね、俺」
「どうして?」
わからないの?と訊くと、マリオンはぶんぶんと首を縦にふって頷いた。
「全然わかんない。アルバートの顔見て楽しいの?」
「うん」
仲良しなんだね、とマリオンの全く見当違いの言葉に、ユーリは苦笑するほかなかった。



 fin.

初出:2013年8月1日

Apr 10, 2014

苦くて、甘い。

午後は自由に過ごして構わないんですって!! と、扉を開けるなり、ルルは叫んだ。
「というお達しを陛下から賜りましたあッ!!」
ルルはあわててドレスの裾をつまんで一礼する。
顔を上げたその先の、テーブルに積まれ無造作にページが開かれたままの本達の向こうに、およそレディらしからぬ格好で本を読むプリンセスの姿があった。
ウィスタリアからついて来たこの元気あふれる女官を、プリンセスはちらりと一瞥した。
「ふう~ン。それじゃあ借りたコレ、結構おもしろいから読んじゃおうかな」
ソファに片足を乗せてその膝に頬杖をつきながら、もう片膝に乗せた分厚い本のページをめくる手を休めない。
「シュタインの女官がみたらひっくり返りますよ、そのお姿」
レースのペチコートがドレスの下から覗いている。
「いいの、これ見せペチだから・・・っていうか、そんなの今更。でしょ」
パタンと音を立てて本を閉じ、ソファの脇に置くと足を降ろし、もそもそと足先で床をまさぐった。
「・・んもう。お靴はこちらですよ!!」
ルルは自分の足元と、テーブルの下に転がったプリンセスのミュールを拾い上げた。
「ありがと、ルル」
ルルが履かせてくれるのを眺めながら、プリンセスはふう、と小さく息をついた。
この子はきっと後をついて来るに違いない。
「そうだ。ご褒美として、あなたにも自由時間を進呈しましょう」
とてつもなく綺麗な微笑をうかべてみせた。

お供します!!という女官に、適当なお使いを言い渡し(無理矢理置き去りにして)、プリンセスは散歩へ出た。
この間は東の庭園に行ったから、今度は西に行ってみよう。ルルには悪いが、たまには一人でぼんやりしたいのだ。
「向こうの林の小道の先にも小さな庭園があって。そうだな、マリオンさまの好きそうな木があったかな?」
ユーリが意味ありげに小さく笑ったのを思い出したのだ。
手入れはされているけれど、あまり人が通らないのか、石畳の隙間のあちこちに小さな草が生えていた。
「なるほどー」
マリオンはうんうん、と頷く。
「これはいいカンジかも」
小道の石畳は途絶え、林はやがて灌木の茂みとなり、ドレスの裾を枝に持って行かれないよう気をつけながら歩いていくと、突然開けた場所に出た。
「ここかあ」
小さな泉と石造りの東屋。東屋の横には大きな楡の木が立っていた。
花壇や鉄柵があるものの、世話をされていないのか植えられたものか自生なのかわからない植物が茂っている。
「お城から離れ過ぎてて、放置されているってこと?」
枯れかけた草の下に、若緑の芽がみえる。
「それとも、わざと?」
マリオンはかがんで枯れ草を引っ張ってみた。力を入れて引くとごっそりと藁束のように草が毟れて、花壇の縁石と黒い地面が見えた。そしていくつもの小さな花と思える草の芽が姿を現した。
「ヒミツの花園ごっこができそう」
腕組みしながら、緑の芽を眺めて。
「でも、ちゃんとした花園になるまでは、いられないか」
予定では、シュタイン滞在はあと2週間だ。
泉の周りの花壇から離れて、大きな楡の木の下までやってきた。
目を細めて、振り仰ぐ。
「園芸ごっこより、こっちだよね」
丸い葉がいくつにも透明な緑に重なって、真昼の光を柔らかくマリオンの頭に落としていた。
ミュールを脱いで背中のリボンに挟むと、ドレスの裾を思い切りたくし上げてそれも腰のリボンに挟み込み。
「ドレス着てるから、ムリでしょうって?ノンノーン舐めてもらっちゃ困りますよっと」
木の幹にちょうどよい位置に窪みをみつけると、慣れた様子で足をかけた。


ウィスタリアのプリンセス付の女官、ルルは厨房から戻るところだった。
西日の射し始めた回廊を小走りにかけて行く。
「いっけなーい。つい話し込んじゃった」
足を止め、手に抱えた籠の中を覗いた。プリンセスの好きな焼き菓子と、この国名産という果物が入っている。
シュタインの男共は、ウィスタリアと違って大抵いつみても仏頂面なんだけど、声かけてみると意外とチョロいのよね。
昨日の晩餐のデザートが素晴らしかったのでぜひお礼を言いたい、と厨房に乗り込んだときの戦利品を眺めて、にんまりと笑った。
それにしても。そろそろ午後のお茶の時間には遅い時間になってしまう。プリンセスは部屋に戻って来ているだろうか?
「おい」
「ヒャッ!!」
いきなり背後から低い声。
これは、ひょっとして。おそるおそる振り返ってみると。ああ、やっぱり背の高いインケン眼鏡男(プリンセス談)だ。
「ご、ごきげんよう。ブルクハルト様。廊下走ってすみません!!」
先手必勝!謝り勝ち!とばかりに、ルルは大きく頭を下げた。
「いや。…お前の主人もそれくらい素直ならいいのだが」
きたよ…と思い、なおも頭を下げてルルはやり過ごそうとした。
「部屋の扉は開けっ放し。読みかけの本は開いたまま」
うわ、失敗した!それはマリオン様じゃなくて私が片付け損ねてただけなのにッ!! ルルは首元からかあっと熱が上がって来るのを感じた。
「ち、ちがいます。それは私が片付けるのを忘れて」
国王の忠実なる騎士アルバート・ブルクハルトは、目を眇めてちらりとルルを見降ろした。
「マっ、マリオン様の身の周りは、私がっ、きちんとお世話をしなければ、なので!マリオン様が悪いわけじゃ…」
「ヤツは、自分のことは自分でするから!と宣言していたが?」
何故? この騎士は、どうして!いつもいつも!いちいちいちいち!プリンセスに突っかかって来るんだろう?というか、どうしてプリンセスの部屋の状態を、この人が知ってるの? ルルの頭の中の疑問符は、この日も増えつつあった。
「あれ?」
ルルは、はたと気づいた。
「あの。マリオン様は、まだお部屋にお戻りになってなかったのでしょうか?」
「だからお前を呼び止めた」
本の続きを読みたいから、すぐに戻ってくる。そしたらお茶にしよう、そう彼女は告げて部屋を出たのだ。
「マリオン様はすぐに戻ると…」
そう言ってからどれくらい経っているのだろう?
「どこに行った?」
え?たかが2時間程度なのに。姿が見えないだけで、そんな顔して問いつめないでよッ!! ルルは心の中で叫んだ。



ポスッと小さな音を立てて、ミュールが木の下に落ちて転がった。
「あ…」
どうやら眠っていたらしい。木の枝に座っているのもそろそろ辛くなって来た。周りは充分に明るいけれど、少し黄昏色を帯び始めている。
両手を上に広げて伸びをして。
「かえりますか」
降りようと思ったそのとき。草を踏む音が近づいて来た。動物だろうか? 熊…はさすがにいないだろうけど、鹿とか狐とか?枝葉が邪魔をして姿がよく見えない。
やがて、足音の主の姿が木の真下にやってきた。
「熊の方がよかったわ・・・」
黒い騎士服に身を包んだ背の高い男の姿がそこにあった。


「・・・だからマリオン様には俺が付くっていったのに。いいよ、俺が迎えにいくよ」
ユーリは執務室で書簡整理をしていた。最後の一通をぽんと箱に投げ入れると、席を立つ。
「場所は俺もわかる」
ユーリを制するように、アルバートは低く言い放つ。
一緒に引っ張って来た女官に話をさせ、ユーリを問いただして、プリンセスの行き先がわかったのだった。
「アルバートはさあ、突然なんだよね」
部屋を出ようとしたアルバートは振り返る。ユーリは机に片手をついて寄りかかりながら、ペーパーナイフを指先で軽く弾いていた。やがて、視線をアルバートに移して言葉を続ける。
「予想外のことが起こったら笑うしかないよね・・って、マリオン様が言ってたよ」
無表情なアルバートに対して、ユーリはにっこりと笑った。
「アル、これってなんのこと?」
2人の間に挟まれるように立っていたルルは、この剣呑な空気に小さく震えた。

彼は転がっているミュールに気づいて拾うと、おもむろにこちらを見上げた。
「猿ですか」
「人間ですけどー」
「分別ある人間のする行動とはとても思えないが?」
「分別あるから、目立たない場所で登ってるんでしょ」
マリオンはもう片方のミュールも投げ落とした。狙ったわけではなかったが、アルバートの足元にミュールは転がった。
「あ、ごめん」
アルバートが黙って拾うのを見て、とっさに呟いた。
「降りて来たらどうですか」
「見下ろされるのはイヤなんだね?」
マリオンは笑った。ムッとするアルバートに更に声を上げて笑う。
アルバートはこちらを正視せず、ときどきちらちらと視線を外す。何故か、気まずそうだ。
「まあ…。珍しいものが見れるのも面白いが」
見上げるアルバートの視線に、マリオンははっと気づいてドレスの裾を降ろそうとした…
その瞬間、頭の後ろに空が見えた。

「危なっ…」
マリオンは両手で枝にぶら下がっていた。
「余計なこと言わないでよー」
「黙って見ててもよかったのか」
「な…馬鹿っ!」
足をぶらぶらと振って蹴り倒してやろうとしたが、届かない。
「いいから、早く降りてください。いい加減手を放しなさい」
アルバートは両手を伸ばした。受け止めてくれるらしい。
「自分で降りれるってば」
「ケガをしたらどうするんですか」
「しないってば。だからそこからどいて」
アルバートの手は、マリオンの爪先までぎりぎり届かない。アルバートに抱きとめてもらうのなんて、まっぴらごめんだ。想像するだけで顔から火が出る。でも。
「わかった、降りる」
マリオンの言葉に、アルバートは頷いて。

次の瞬間、押し殺したような悲鳴が短く響いた。
仰向けに倒れたアルバートの上にマリオンは着地していた。
「あははははははは!だからどいてって言ったのに!」
降りると言ったマリオンは、こともあろうにアルバートめがけて、わざわざ振り飛び降りをしたのだった。
そして、マリオンを受け止めようとしたアルバートは、彼女の膝を腹にぶつけられて倒れたのだった。
「ごめんね、当たっちゃった?」
くすくす笑いながら馬乗りになったまま、マリオンはアルバートの顔を覗きこんだが。
アルバートは動かず、目を閉じたままだった。
「あ…れ? アルバート?」
打ち所悪かった?マリオンはアルバートの顔にそっと耳を寄せた。息はしているようだ。
「だいじょうぶなの…?」
マリオンがアルバートの眼鏡に手をかけようとしたそのとき。
眼鏡は掴めず、かわりに自分の手を掴まれた。
「なんてことをしてくれるんですか、あなたは」

マリオンの膝蹴りを喰らい、一瞬もんどりうってしまったものの、まあ無事に着地出来たのでよしとしたかった、が。
何故自分の上に馬乗りになったままどかないのだ。いやがらせか。
しかし、自分にかかるこの重さは悪くなかった。目を閉じたままにしていると、不安げな細い声が聞こえてくる。
やわらかな髪の感触が頬を伝い、かすかな花の香りがアルバートに思い出させた。
あのときと同じように…
咄嗟にマリオンの手首を掴んでいた。
せっかく忘れようとしていたのに。「なんてことをしてくれるんですか、あなたは」

「ごめん」
かすれたソプラノが聞こえると、澄んだ青い瞳が瞼に隠れ、長い睫毛がかすかに震えた。

「また、笑いますか?」
そういって、もう片方の手でマリオンのうなじを引き寄せて唇を重ねた。
びくりと跳ね起きようとする体を押さえて反転させて、天地は逆になった。
「ぶつかっておかしくなった?」
マリオンは呟いた。笑ってはいなかった。
「ぶつけたのは腹だ。ひどいやつだ」
細い顎を掴んで、もう一度口づける。


初出:2013年7月9日


to be continue→苦くて、甘い。02

苦くて、甘い。02

いきなり深く口づけられて、マリオンはうろたえた。
こんなの知らない。
こんなアルバート、知らない。

唇がわずかに離れたとき
「やめて…」
という声がアルバートの耳に届いた。
弱々しいけれど、うるんだ瞳はまっすぐにこちらを見上げて睨んでいた。なのに、止めるどころかより力を込めてマリオンの動きを抑えようとする自分がいた。
「痛っ!やめ…っやめてってば!馬鹿っ!」
比較的自由だったマリオンの足がアルバートの足を蹴った。その瞬間、掴まれていた手の力が緩んだ。
「痛いっていってるでしょ!」
同時に乾いた音が辺りに響く。熱くなった左頬が打たれたのだと気づいた瞬間、二発目を繰り出さそうとするマリオンの手を素早く受け止めて避けた。
アルバートはゆっくりと手を離した。

「・・・すみません」
俯いて、それだけ告げると体を起こし、離れて力なく腰を下ろした。両手で顔を覆い、彼の表情は見えなくなった。
 マリオンは小さく息をついて空を見上げた。ここに来たときは水色だった空が、淡いラベンダーに変わろうとしている。鼻の奥がツンとした。
「・・・痛いんだけど」
マリオンは呟く。
「背中、痛いんだけど!」
仰向けのまま、目をぎゅっと閉じて声を張り上げた。 両手を空に向かって上げて。アルバートは顔を上げてマリオンの方を向いた。
袖がめくれてしなやかな腕が見えていた。まっすぐに伸ばされたその手を、おそるおそる握り、マリオンの体をそっと起こした。

「申し訳ありません。もう・・・しません」
 当たり前でしょ!と、思うのにそれに対する返事は
「アルバートの馬鹿!」
だった。
どうにも押さえられない気分のまま立ち上がり、アルバートの脇を抜けて東屋に向かう。さっさと行くつもりが、途中で面白半分に抜いていた枯れ草に足を絡ませ、躓きかけてしまった。
「こっちに、来ないで!!」
近づいて来ようとするアルバートを睨んで制する。アルバートはその場にぴたりと立ち止まった。
「服、着直すんだから! だから、あっち向いてて」


と言って始めたものの。
ひとりきりで鏡もないところで、どうやってこの服の乱れを直せばいいのか。
とにかく背中と腰の後ろで結ばれたリボンをほどいて、土ぼこりと草の葉を払い落とす。
ひたすら服を叩いているうちに溢れかけていた涙はひいて、ひんやりとした風に手を止めた。そよそよと、髪が頬を撫でていく。
埃の汚れは叩いても完全には取りきれず、 やたらに捲り上げたり、押さえつけられたりしたせいか、妙な皺がたくさんついてしまっている。
本当に木登りだけでこうなったのか?とルルが問いつめて来るのは確実だろう。
アルバートが来たとき、すぐに降りればよかったんだ。
ちょっと困らせてやろうだとか、からかってやろうだなんて、考えた自分が馬鹿だった。今まで何回も繰り返して、何回も素通りして終わっていたから油断した。
ここまで、と引いた線を、この間越えられてしまったのに。
東屋から少し離れたところに、アルバートの背中が見える。何故待たせてるんだろう、先に帰ってもらえばいいのに、そうしない自分は一体何なのだ?
「あの・・・」
「なんでしょう」
振り返らずにアルバートが答えた。気持ちよりも先につい声をかけてしまった。どうしよう。
「先に、戻ってていいよ、もう」
「なぜ?」
「なぜって・・・」
マリオンは口ごもる。
「まだ、時間かかっちゃうから。私がここにいるの、わかればいいでしょ?だから、先に・・・」
アルバートは盛大に息をついた。
「そうではなく」
 マリオンは言葉を遮られて、リボンを弄る手を止めた。
「時間がかかるのなら」アルバートの声はひどく静かだった。
「手伝え、と何故言わないんですか」
えっ?マリオンはそのまま固まってしまった。
服を、着直すのを、手伝う?誰が?アルバートが?!待って!
それは困る!と顔を上げると、既に目の前にはアルバートが立っていた。
マリオンが履き損ねた靴を持って。

「言いたいことがあるのはわかりますが、このままでは本当に日が暮れてしまう」
 アルバートはさっさとマリオンの後ろへまわると、有無を言わさずリボンを結び始めた。
「ちょっ・・・」
「大人しくしていてください」
手際のいい動きに、マリオンは黙りこんだ。さっきのさっきなのに、この切替の早さって・・・などと半ばあきれ、半ば感心していると。
「自分のことは自分でする、という人が一人で脱ぎ着できない衣装を着るとは」
「それ余計だから!」
後ろに向かって肘鉄を喰らわせようとしたら、くるりと向きを変えられ
「あなたも大概に余計だ」
と、肘を押さえられてしまった。慇懃無礼な普段と同じ態度に、逆にほっとする。
「出来ました。髪はどうしますか?」
「・・・別にいい。ありがと」
マリオンは頭の左右に結んだリボンをほどいた。金色の長い髪をおろし、ふるふると頭を振って髪を背中へ散らす。やわらかに波打つ髪は淡く輝いていた。
「これでいいから」
口の端にわずかな笑みを浮かべる。

惹き付けて止まないその微笑を。今、この自分に見せるのか。
つくづく、ひどいやつだ、とアルバートは思った。


「痛た・・・」
「どうしました?」
マリオンは石のベンチにへたり込むように座わった。ベンチの上に右足を乗せて踵をさすっている。
「さっき、木登りしたときに、どこか引っ掛けたみたい」
アルバートはマリオンのそばに屈み、その右足首を掴んだ。
「ひゃっ!!」
「ああ。擦り剥けていますね」
「触んないでよ」
というマリオンの声をアルバートは無視して足首を持ったまま、もう片方の手でコートのポケットをさぐった。
白くて華奢な足。そのまま地につければあっというまに傷だらけになるだろうに、構わず裸足で踏み入れる。
「ひどいプリンセスだ」
つい、いつもの調子で呟いてしまったが、マリオンは黙ってアルバートの手を見つめているままだった。
取り出したハンカチで傷を覆うように踵を包んで端を結ぶと、ありがとう、と小さな声が返って来た。
その声は反則だ。越えてもいいのかと錯覚しそうになる。


マリオンの顔をじっと覗きこんだ。
「何?じっと見て…」
立ち上がってマリオンの隣に座ると、アルバートはおもむろに手を伸ばし、指先でマリオンの目尻を拭った。
マリオンの肩がかすかに揺れる。アルバートは更に顔を近づけた。
「顔も、汚れてた・・・?」
マリオンはちょっとおどけて小さく笑ったが、それがひどくぎこちなく見えた。怯えているのならごまかさず離れればいいし、そう言えばいい。
けれど、覗きこむ自分をまっすぐ見つめ返してくる。
拭ったものの、それは取れなかった。もう一度指先で触れると、マリオンはわずかに顔をしかめる。小さな切り傷だった。
「こんなとこまで怪我をして」
乾いた血が肌にこびりついていたらしい。
「・・・これはアルバートのせいだと思う」
 マリオンがぽつりと呟く。
「さっき、アルバートが・・・」
囁くような、自分を呼び寄せるような。
だから、そういう声はやめて欲しいのに。


かすかな鉄の味は、涙と同じくらいに甘い。

マリオンの頬に手をかけると顔を背けられたが、掌の中に彼女の唇を感じたので、そのまま引き寄せて目尻に口づけた。
舌でその傷を拭う。
「アルッ・・・」
みごとなほどに紅く染まっていく顔を眺めていると、マリオンはきっと睨みあげて手を伸ばし。
そっと、アルバートの眼鏡を外した。
「見ないでよ」
それは、抗議にも拒否にもならない。
お互いの息がかかるこの距離で、見えないものなどあるものか。
「落とすなよ」
なにか言おうとするマリオンの声を、アルバートは唇で塞いだ。
眼鏡を持った手は空を切り、やがて力なく垂れ下がると、草の上にその眼鏡を落とした。



「もうしない、って言ったのに・・・」
濡れた唇から溢れる言葉が、アルバートを繰り返し引き寄せる。



fin.

初出:2013年7月11日



このあと、プリンセスはアルバートに抱っこされて帰城しました。何時に着いたのかは知りません。