Sep 8, 2014

Per te sogno non finito

黝い無地の空に下弦の月が昇り始めた頃。
それは騎士団長アルバートの、予定外の些末な案件が重なりに重なった公務が片付いた時間だった。控えの従騎士を先に下がらせ、ひとり執務室の扉を閉じる。
本来ならば星見の晩餐に出席する筈だったのだが、それは国王主催のものではなく急ごしらえの文官の宴であったので、アルバートがそれを優先させる必要はなかった。
必要はなかったはずだが。
静まり返った長い廊下を歩きながら、彼はふと立ち止まった。眼鏡をそっと指で押し上げて、窓の外を見つめる。
朧な光が中庭を藍色に染めていた。深更の空には願いを叶える星の姿は既にない。東の空に浮かぶ月が放つ淡く青白い光が、その姿を消してしまったのだろう。
半分に欠けた月の姿は冴え冴えと遠く、つい彼女の横顔を重ねてしまった自分に苦笑する。彼女はもう眠りについた頃だろうか?


自室に戻り、服を着替えようと寝室の扉を開けようとしたとき。いつもと違う雰囲気にアルバートは眉を顰めた。
静かに扉の取っ手をまわして、音を立てずに暗い部屋に入る。オイルランプの火を床燭台に移すとぼんやりと明るくなった。
そして。ベッドの上を見た瞬間、アルバートは首を横に振り大きく嘆息した。
ベッドの真ん中に窓側を背にし緩く手足を丸めて、すやすやと寝息まで立てて眠るプリンセスの姿がそこにあった。
寝間着の上にガウンを羽織っただけという、プリンセスにあるまじき格好で。他人の、それも男の部屋に、更に真夜中に、勝手に入り込んで眠っているとは何事だ。
とはいえ、さすがにアルバートにも察しはつく。晩餐会に出なかったのが気になったのだろう。朝まで待てなかったのか。彼女は自分の行動がどういうものか、わかっているのだろうか? 胸の奥を掴まれるような感覚が、アルバートにやるせない笑みを浮かべさせた。
再び一つ息を吐き出すと、ベッドの上のプリンセスを見下ろす。
主に断りもなくお行儀良く枕の上に足を乗せて、つまりは彼女は逆さまの位置で寝ているのだが。シーツに広がる長い金の髪は幽かな灯りに淡く煌めき、無防備に横たわる体の曲線のその先の、ガウンの裾が乱れて裸足の足首から白いふくらはぎが覗いていた。
つい、と目を反らしサイドテーブルを見やると、トレイに瓶とグラスが2つ置かれているのに気づいた。ワインのボトルかと思ったが、それは見た事もない琥珀色の瓶で、ラベルには異国の文字が書かれている。グラスの片方の底にはそのボトルの中身と思われる液体が残っていた。
待っている間に飲んでいたのだろう。

嵌めていた革の手袋を外し、続いて剣帯を外して椅子に置き、重い外套を脱いでそれも椅子の背に掛けた。
「プリンセス」
そっと声をかける。
何も反応がない。ベッドに膝を付いて上がると彼女の顔を覗き込んだ。
「起きてください、プリンセス」
軽く肩を揺すってみる。くぐもった声の混じった吐息が漏れ、長い睫毛が震えたものの伏せられたままで開く気配がない。
「プリンセス?」
もう一度肩に手をかけると、彼女は手を少し伸ばしたかと思えば体を捩って、アルバートの反対側を向いてしまった。
熟睡しているのか。そして寝相が悪いのか。そっと顔を覗き込むと、彼女の吐息がふわりと鼻を掠める。微かなアルコールと、甘く柔らかな花のような匂いがして引寄せられる。
「…ん」プリンセスが小さく息をついた。アルバートは慌てて体を起こし、声をかけようとしたが。
また、ころんと彼の向こう側へ寝返りをうってしまった。本当に寝ているのだろうか。
「おい」
先ほどまでとは違った、低い声で呼ぶ。
「プリンセス」
声をかけた途端、プリンセスは更にもう一回転して、アルバートから離れる。肩が小刻みに揺れていた。
「目を覚ませ、プリンセス」
アルバートはプリンセスを起こそうと、手を伸ばした。が。こちらが見えない筈の彼女はするりとその手を躱して再び体を捩って逃れようとし。
ベッドの上から姿を消した。
正確に言えばベッドから転げ落ちた。
ごつんと鈍い音がし、小さなうめき声がアルバートの耳に届く。
「…やれやれ」
ベッドの下から手が現れ、ひらひらと振っている。
「…おかえりなさい」
 ほんの少し掠れたその声は、甘い響きで彼の内をさざめかせた。


「まったく、貴女というひとは」
抱き起こそうとしたら、ぐいと腕を引っ張られプリンセスの体の上に倒れ込んでしまった。咄嗟に腕を付き、体重がかからないよう上半身だけ起こす。
「…だめ」
プリンセスの手がアルバートの頭をぐっと押さえ込む。こちらを見つめる青い眼差しに引き込まれるように唇を重ねようとすると
「…だめ、待って」
今度は口を押さえられた。一体なんなのだ。
「マリオン」
「うん…見て?」
 彼女の視線を目で追うと、それはカーテンが開いたままの窓辺に辿り着いた。
「ほら、月が見える」
先ほど見かけた半月が、窓の向こうの空高く浮かんでいる。
「ベッドの上からだと見えないけれど」
「ああ…」
「晩餐会のときは見えなかったのに」
「あの月は夜中にならないと見えない」
そうなの…、と呟くマリオンの口を唇で塞ぐ。一度重なった唇は離すのが難しく、何度も角度を変え深い口づけを繰り返した。床の上のマリオンの手がアルバートの首から背中へ絡み付き、やがて再びゆっくりと滑り落ちて行くまで。
「晩餐会で、変わったお客さまがいて」
ようやく口が自由になったマリオンは、思い出したように話し始めた。
「客…?」
彼女の細い指がアルバートの短い髪を梳き、彼の眼鏡の弦に触れた。
「眼鏡、外さないの?アルの目をすぐ近くで見たい」
「貴女が見えなくなってしまうから駄目だ」
 えー、と小さく頬を膨らめてマリオンはアルバートの眼鏡のブリッジを爪の先で弾いた。
「何をする」
 くすくす笑う彼女の鼻の頭を噛むように口づける。
「遠い国から船でやってきた方。アルのように黒い髪で、アルのような」
そこで一旦言葉を切る。マリオンの両手が確かめるようにアルバートの頬を撫でてゆく。
「…アルのような切れ長の目をしていたの」 
遥か東方の国からの使者が来訪したのは聞いていた。アルバートの公務に重なった案件の一つでもある。興味を持った国王がそのまま晩餐の席に招いたのだ。使者の風貌についてのマリオンの語り様が少々癪に障る。
「そして。月の話をしてくれたの、星じゃなくてね」
アルバートはマリオンの唇の横を掠めるように口づけ、そのまま頬から耳元にかけて唇を這わす。
「アルバート…」
やめて、という制止の呼びかけではなかったので、彼はそのまま首筋に顔を埋めたまま訊ねた。
「どんな話?」
「月には大きな宮殿があって、そのお庭にとても大きな桂という木が生えてるんですって。どれくらい大きいかっていうと…」
マリオンは体を捩った。
「くすぐったいってば。聞いてる?」
「聞いている」
首筋を辿って鎖骨へ。マリオンの肩が震える。
「眼鏡が冷たいの。外して?」
「嫌だ。貴女をよく見たいから」
アルバートはマリオンのガウンに手をかけた。ベッドの上に引き戻すことは既に頭になく、目の前の彼女を自分の内に閉じ込めることだけが彼を支配していた。
月には五百丈に及ぶ大きな桂の木が生えていて、
それをひとりの男が切り倒す為に斧をふるっているという。
男は過ちを犯して王の怒りに触れ、月宮に送られた。
その桂を切り倒す事が出来れば、男は地上に戻れるのだと。
だが、切っても切っても、翌日の朝には木の切り口が塞がってしまうので、
永遠に男は木を切り続けているのだという。
マリオンは、体を這うアルバートの指と舌に切なげに眉を顰め息を乱し、詰まりながらも言葉を紡いでゆく。
また、月に囚われたひとりの美姫が、地上に遠く離された恋人の元に帰る為に、
男に桂の木を切らせているのだという。
切り倒された木を辿って地上に降りられるのだとも。
「…その国に伝わる、古い古い話だそうよ…」
ようやく話し終えると、マリオンは堪えきれず息をつき、小さく喘いだ。
マリオンの潤んだ瞳がアルバートを見上げた。話している間中、与えられ続けた熱にその瞳を細めて彼の体に縋り付く。
「私なら… 自分の力で…会いにいくのにな…」
「貴女ならやりかねないな」
そういう自分は?アルバートは体を起こし、剥き出しになったマリオンの脚を持ち上げた。
「私が迎えに行くまで待てないのですか?」
そう続けるのがやっとだった。自分の熱を更に奥深く埋め込む。
悲鳴とも嬌声ともつかない短い声を上げ、マリオンは白い喉をのけ反らせた。


腕の中のぬくもりが消えている事に気がついた。掛け布も敷布も引きずり降ろし硬い床の上で転寝していたらしい。体を起こし、ベッドを見たが姿がない。振り返ると、窓辺に彼女のしなやかな背中を晒した姿があった。本当に無防備で頓着がないプリンセスだ。
「服くらい着てください。それとも」
マリオンの背中から纏った掛け布ごと包み込むように抱きしめて、耳元で囁く。
「まだ煽るんですか」
「ばか」
首だけ振り返ったマリオンにアルバートは口づけた。
月は闇の色を従えて中空のはるか彼方に登っているが、地上は薄らと白み始めていた。
「丹桂っていうんですって」
「何が?」
「月に生えている桂のことよ。すごくいい香りの花が咲くんだって」
いい香りなら、この腕の中にある。


fin.

初出:2013年10月11日

オマケ【夢逢瀬】




星より月の方が話のモチーフとしては使いやすいような気がします。ということでイベントの願いを叶える星から強引に月へ話を引っ張ってみました。
そういえば、最初のアルBDにも月が出てきましたな :p
話を書きながら、ふと自問自答。これ…星も月も見えるってどういう状態よ?フツー星が綺麗に見えるときって月は邪魔でしかないけど、登場してもらわなきゃならないから(笑)話の都合上、お月様には遅めの出番にしてもらうべくちょっと欠けてもらいました。なので下弦の月なのです。
(アプリに満月に星が一面に広がる空の立ち絵の背景がありますよね。あれ、きれいだけど、作り話だからいいじゃんといえばいいじゃんだけど… 個人的には想像し辛いものがあります…)











夢逢瀬

その星見の宴に、初めて見る人の姿があった。遥か東方の国からやってきた使節団の使者だという。まだ若いようにも見えるが、整ったその顔立ちの表情の乏しさからは、彼が一体幾つなのかわかりようもなかった。
今までみたこともないような身なりと風貌に目を奪われたプリンセスは、会食の間中気づかれないように眺めていた。
こちらの騎士達が着る官服とは全く違う、ゆったりと袖も裾も長いガウンのような服。布の帯と玉飾りのついた紐で編んだ帯を腰に巻いている。黒い真直ぐな長い髪を一つに束ね、背中に垂らしている。文官のようでもあり、武官のようでもある。隙のない居住まいと容赦のない厳しい視線は誰かを思い出させる。

文官主催の宴は早々と切り上げられ、国王が退出した後も学士達はバルコニーに設けられた席で銘々に星を眺めていた。天高く輝く、城下では「願いを叶える星」という異名を持つその星を。
バルコニーの手摺にもたれ、プリンセスもその星を眺める。今夜ここにいない『誰か』はまだ公務の真っ最中なのだろう。
「お願いごとをされるのですか?プリンセス」
振り返るとそこには今夜のもう一人の賓客が立っていた。
遥か東方の国より旅をしてきた使節団の若き長。
「イェン・ジン様はされまして?」
「いいえ。星はプリンセスのお願いを待っているようだ」
瞬く星空をイェン・ジンは振り仰いだ。
プリンセスは軽く目を伏せ、うん、と頷いて口を開く。
「私はお願いごとはしないんです。願うまでもありませんから」

 闇は更に深まり、星の煌めきは明るさを増してゆく。
「星見の宴というのに、さきほどは当てが外れた話をしてしまった」
プリンセスは、大きく首を振る。
「いいえ!そんなことはありませんわ。とても面白かったもの。空にまつわるお題なのですから。皆さん聴き入ってましたわ!」
「そうですか」
口元だけに笑みを浮かべるその顔に、プリンセスはふと気づく。
「いかがなさいましたか、プリンセス?」

「ごめんなさい」
まじまじと顔を眺めてしまっていたことに気づいて、プリンセスは頭を下げた。
「いや。美しい姫君に見つめられるのも一興」
今度は使者イェン・ジンの目元も笑っていた。
「あなたが、知り合いに似ていたのでつい…」
 イェン・ジンは、切れ長の目を僅かに見開いた。
「この国に私に似た人間がいるとは珍しい」
よく見ると違うような気もする。でも。
「それは…」
東方の使者は、戸惑う姫君に問いかけた。
「出過ぎた問いかけだと百も承知ですが、お聞きしたい。その方は、貴女の恋人ですか?」
えっ!プリンセスは持っていた杯を危うく取り落としそうになった。耳がかあっと熱くなっていくのがわかった。この人は唐突に何を言い出すのだろう。
涼しい夜風が吹き抜ける。
「貴女の眼差しは」イェン・ジンは一旦言葉を切り、目の前のプリンセスの向こうを眺めるような眼差しで口を開いた。
「私を見つめる恋人と同じ瞳だったので。宴の最中から少し気になっていたのです」

使節団の旅は長いものになる。目的を達するまで何年かかるか分からない。だから、待っていろと約束は出来なかった、と彼は淡々と話した。懐かしい眼差しを思い出した、とも。
「きっと、今頃は良い人をみつけて幸せな暮らしを送っていることでしょう」
「そんなことはないです!きっと待っていますわ」
反射的にプリンセスは答えていた。彼は思い出したんじゃなくてずっと思い続けている、だから自分の視線に気づいたのだ。
 「言葉で約束しなくても、彼女はきっとわかっていたはずです」
なぜそう言いきってしまうのか分からない。
イェン・ジンは軽く目を伏せ、小さく息をついた。
「ありがとう。貴女は優しい方だ」


「何を話していたの?」
イェン・ジンがプリンセスに向かって両手を組み、拱手の礼を以て退出すると、 少し離れた位置で控えていたユーリがやってきた。
「ん?ちょっとした世間話」
プリンセスはにこっと笑った。
「あれ?マリオン様。どうしたの?」
ユーリは頭の天辺をちょんとつついて指差した。プリンセスは自分の頭に軽く手をやって、ああ、と頷いた。髪に挿していた真珠の飾り櫛のことだと気づく。
「イェン・ジンにあげたの」
「どうして?」
「彼は国に帰ったら、結婚するんだって。だからそのお祝いに」
真珠の飾り櫛は、確かプリンセスの亡き母の形見だと聞いている。それは大事なものじゃなかったのか?静かに微笑んでいるプリンセスに、ユーリは言葉もなかった。
「マリオン様って、本当に…」
「うん?」
「なんて言っていいかわかんないけど、抱きしめたくなっちゃうよね」
と、誰かが聞いたら手袋を叩き付けて来そうなことをさらりと言ってみる。
プリンセスは、あははと軽く笑って受け流した。



宴が終わって部屋に戻ると、待っていたルルから細長い箱を手渡される。
「これは?」
「イェン・ジン様からの『お礼』だそうです」
箱を開けると、中に入っていたのはワインに似た瓶と、金糸の刺繍入りの布包みだった。紐を解き布を開くと、扇子が現れた。親骨に花をあしらった螺鈿装飾が施された美しいものだ。
扇子を開き、あおいでみると芳しい香りがふわりと漂う。プリンセスもルルも思わずほぅっとため息をついた。
「それから、そちらはお国のお酒らしいです。ええと、月の、木に咲く?お花を漬けたもので、なんかとてもおいしいそうですよ?」
瓶の中には、月の光を閉じ込めた色の液体が揺らめいていた。
そして。
部屋の窓から、空を眺めて見る。先ほどまで煌めいていたあの星は、もうわずかに瞬くのみで、今にも消えてしまいそうだった。



「約束はしなかった。けれど、必ず帰って会いにいくと決めている」
イェン・ジンの低い声が蘇る。
彼が恋人に会えますように、と プリンセスは消え行く星に願いをかけた。



 fin.
初出:2013年10月11日


Per te sogno non finito の捕足?オマケ? いや、蛇足だなw
こざっぱりとまとめたかったのに、どうしてもいらんことがくっついてしまーう!
でもでも。アルバートのアの字も出さずに終えられたぜ!

イェン・ジンは剡谨と書きます、多分。この名前つけるだけで一体どんだけ時間使ったことか!!
ついでに、扇子は親骨に黒檀と扇面に白檀を使ったごっつ豪華なヤツを想像してください…

Jun 12, 2014

野ばらのような、あなた II

→野ばらのような、あなた I

ユーリが急の命を受けたということで、代わりにプリンセスの付き添いをすることになった騎士団長は、東庭園の石段の途中で立ち止まっていた。腕にプリンセスを抱えて。
「…びっくりした。ありがとう、アルバート」
プリンセスはアルバートの腕にしがみついて、ほっと息をついた。
何故か突然急いで階段を上り始めたプリンセスは、3分の2ほど上がったところで勢い余ってドレスの裾を踏みつけ、バランスを崩した。数段下がってついて来ていたアルバートは2〜3段飛ばして駆け上がると、転げ落ちかけた彼女の体を抱きとめたのだった。
「あの…」
プリンセスは小さく呟いた。
「もう大丈夫なんだけど…」
結果として抱きしめた状態のままだったことに、はっと気づいて腕を解いた。
「気をつけてください」
プリンセスから顔を反らして眼鏡を指で押し上げる。
「そんなに慌てることもないでしょう」
「ごめんなさい」
プリンセスがこちらを見つめているのはわかったが、どうにも顔を向けられない。柔らかな体の感触だとか、間近に見えた白い項だとかというものは。なんと心臓に悪いことか。
「久しぶりの外だったから、つい嬉しくて。…あ」
言葉の止まったプリンセスに、アルバートはようやく彼女の方を向いた。
「靴が…」
プリンセスは階段のはるか下を眺めていた。そこには彼女の白いミュールが転がっている。下を見たまま動かないプリンセスに、アルバートは気づいた。
…取りにいけということか?

「…いいでしょう。待っててください」
プリンセスさ加減にも程がある!と若干苛立ちつつもアルバートは階段を下り始めた。そしてミュールを拾い上げたとき。
「靴なんていらなーい!」
プリンセスの声が降って来た。アルバートは振り返り見上げた。両手を腰にあて、けらけら笑うプリンセスの姿が階段の一番上にあった。光を浴びて、長い髪が金色に煌めく姿に目を細める。
「アルバートにあげるわ」
しかも、もう片方のミュールも脱ぐとこちらに向かって放り投げて来た。
「おい!」
思わず声を荒げてしまったが、それは当然だ。
「じゃあね!」
口元に手をあててそう言い放ち、プリンセスはくるりと踵を返して庭園の奥に走り出した。
わざと靴を取らせにいかせて、逃げようとするのか。冗談じゃない!彼女が投げて寄越した方のミュールも拾うと、アルバートはプリンセスを追いかけた。
階段を一気に駆け上がって周りを見渡してみたものの、プリンセスの姿はとうに消えていた。
「どこへ行ったんだ」
吐き捨てるように呟いてひとつ息をつくと、周囲の植え込みの様子を見ながら奥へ続く煉瓦の小道を歩き始めた。どうせ裸足だ、まともに走ることはおろか歩くこともまともに出来ないだろう。 大人げない。まったくもって大人げない。プリンセスとはレディの手本となるべき存在なのではないか?
初めて見たのは。主君に同行したセレモニーのときだ。追い詰められた小動物のような怯え方と、か弱さばかりが目についた。ウィスタリアは何を思ってこんな庶民出の娘をプリンセスにするのかと、唖然としたのが正直な気持ちだ。上辺だけを飾った人形のようなプリンセス。
それは先日の再会時に見事に覆り、更に
「こんな跳ねっ返りだとは思わなかった!!」
と、忌々しげに片手に持ったプリンセスの靴を睨んだ。

こうも見事に姿を晦ますことが出来るとは呆れた身のこなしだ。すぐに捕まえられると思ったが、予想に反して一向に見つからない。
小さな白い噴水盤の手前でアルバートは立ち止まった。この先は二股に分かれている。左は林へ(その先は東城門に続いている)、右はそのまま庭師の小屋に辿り着く。それをプリンセスが知っているとは思えないが、多分人の気配のない方に向かうだろう。
進むとしたら左か、と歩き始めようとしたとき。
背後の木が僅かに揺れた。
「そっちじゃないわ」
プリンセスの声だけが響いた。咄嗟に振り返って見渡すものの、姿はどこにもない。
「こ〜こ。こっち」
別の方を振り返る。
「違うってば。こっちよ」
笑いを含んだプリンセスの細い声が、風にまぎれてアルバートの耳に届く。なぜか高い位置から聞こえるような気がする。嫌な予感しかしない。
「プリンセス!隠れてないで出てきて…」
植え込みの奥の大きな木の枝に金色に煌めくものが一瞬見えた。ガサガサと葉の揺すれる音がする。
木に登っていたのか!アルバートは呆気にとられた。 いくら庶民出といっても仮にもプリンセスとあろう者が、木登りなんかするか?プリンセスでなくとも庶民だとしても、それなりの年齢の女がすることとは思えない。
やがて草葉を踏みつけて飛び降りた音が聞こえ、人の姿らしき気配がした。アルバートのすぐ側に、蔓性の大きな茂みがあった。垂れ下がる枝々には小さな白い花がたくさん咲いている。多分薔薇の仲間なのだろう。城内の庭園では、これまでこのような花を見かけたことがなかった。彼はこの花の名を知らない。
そしてその枝をかき分け、白い花々の中からプリンセスは現れた。
「どうしたの?」
アルバートの瞳に映ったのは、初めて見る彼女の笑顔だった。


to be continued...

初出:2013年9月17日


May 15, 2014

甘くて、苦い。

 眠気のとれない頭で、まだ夜明け前の薄らと青いしじまの中、庭園へ続く道を歩いて行く。
「いくら朝早くと言っても!そのままでお出かけになるのは、このルルが許しません!」
 と、寝癖のとれない頭の女官に化粧され、朝イチから結い上げた頭は気合い入りすぎで恥ずかしいから!!という必死の抵抗の甲斐あって、髪はリボンカチューシャでまとめて長いブロンドを背中に流すだけに留まった。寝ぼけながらもきちんと仕事をこなす側仕えの女官に感心する。
「いってらっしゃいませ」

 ただの散歩なのに。わざわざ飾ることもないのに。「この程度は着飾るうちに入りません」とルルにぴしゃりと言い切られ。強引に着せられた、リバーレースを重ねたクリーム色のドレスの裾をばさばさと払う。そりゃあ昨夜の晩餐のとき、国王陛下も「行ってみたいものだ」…とおっしゃってくれたけど。多分お忙しい方なのだから、いらっしゃらないだろう。
 シュタイン国王との親睦を図り、延いてはシュタインとの親和を密にしウィスタリアの安寧を守るために…母国の官僚や教育係の言葉が甦る。
「あー、もう。わかってる、わかってるって!!」
 自分はそのためのプリンセスなのだから。マリオンはちょうど目についた石畳の小石を蹴り飛ばした。 
 朝露に濡れた石畳の上を滑るように小石は転がっていく。小石の後を追いかけて、ふたたび蹴る。もう一度。蹴っているうちに夢中になって、プリンセスは星見の庭に入ったことに気付かなかった。
「あ…」プリンセスは歩みを止めた。
誰もいないと思っていたのに、そうではなかった。もしかしたら…という一瞬の期待は、その人影を確認した途端、大いなる失望に変わる。
「なんであなたなのよ…」

 プリンセスの蹴った小石は、庭園の中央花壇の前に立つ背の高い男の足元まで転がり、靴先に当たって止まった。
「さすが城下出身のプリンセス。石蹴りが得意でいらっしゃるようですね」
 どうやら石を蹴りながら歩いて来るのを眺めていたらしい。朝一番からこれですか…プリンセスは小さく息をついた。黒の騎士服を纏った姿は、ただでさえ厳めしい印象だけど。
「ええ。その辺の騎士には負けなくてよ、騎士団長さま?」
 つんと顎を反らして答えると、そのままにっこりと微笑んでプリンセスのお辞儀をする。ちらりと騎士団長をみやると、ほんの少し頬が赤らんで見えるような気がした。なぜ?と気になったが、光線の加減かな?と思うことにした。
 それよりも、何故というのなら。何故アルバートがここにいるのか、だろう。
 アルバートがおもむろに眼鏡を指先で押し上げる仕草をしたのを見て、マリオンは少し身構えた。
「…こんなに早く来たって、ゼノ様が来る訳ないでしょう」
 あーはじまった!プリンセスは心の中で肩を竦める。
「一国の王なんですから、忙しいに決まってるじゃないですか」
 そんなの知ってるってば。人質生活の頃からそれは知ってるよ、見ればわかるもん。マリオンはため息をつきながら視線を横へずらすと、周りの庭木が朝日を浴びて輝き始めているのが見えた。きらきら光る新緑の梢を眺めている方がずっといい。
「なんですかその目は」
 ふてくされ感が顔に出てしまったのだろうか。今度はアルバートがムッとした顔になる。
「ともかく、迷惑でしょうね。ずっと待たれていたかと思うと鬱陶しいだけですからね」
 マリオンはふと気付いてアルバートの方を向いた。この騎士団長の言い草はいちいちカチンと来るけれど、ひょっとして自分が来る前からここにいたのだろうか?何時から?
「昨夜は、陛下はご親切にもおっしゃってくださいましたけど。私、そのお言葉だけで充分でしたもの」
 そして一歩近づいて、アルバートの顔を見上げる。すると彼は反射的に半歩後ろに下がった。どうして下がるのよ?
「待ち合わせなどしたつもりはありませんわ?」
 何か言い返そうとするアルバートには構わず、彼の足元の小石を屈んで拾い上げ、手のひらでそっと撫でると少し離れた植え込みの下へ置いた。よくわからないけれど、ある意味「親切」でここに来てくれたのかもしれない。彼の親切の意図について考えたくなかった。どうして?それは、心がざわざわと落ち着かなくなるから。
「では、ごきげんよう」
 くるりと踵を返して、マリオンはその場を去ろうとした。が。途端に背後から声が迫ってくる。
「どこへ行くのです」
「散歩よ、散歩。最初からそう言ってたでしょう?」
 プリンセスは肩越しに振り返って答えると、さっさと歩き始めた。
「供もつけずに?」
「ここは安全な場所なんでしょう?お散歩くらい一人でしたっていいじゃない」
  今度は振り向きもせず、マリオンは急ぎ早に歩みを進めた。後ろから足音が近づいてくる。ドレスのスカートを両手で掴み、ややたくし上げると歩く速度を上げた。
「プリンセス!」
「ちょっと、ついて来ないでよ!」
  走り出そうとした瞬間、マリオンは腕を掴まれ止められてしまった。
 「姫君をお守りするのは…騎士の役目です」
 アルバートに見つめられ、マリオンはたじろいで目を伏せた。
「貴女の行き先はどうせ…」
「え?」
「わかっています。あそこでしょう」
 アルバートはマリオンの腕を掴んだまま、歩き出した。


「よく覚えていたわね」
 マリオンはほう…っとため息のような感嘆の声を漏らした。
そこは以前、シュタインの捕囚となっていた頃に見つけた白い野ばらの茂みだった。初めて見たときよりも花の数も多く、見事に咲き誇っている。小さな花はほぼ満開のようで、カーテンのように重く枝垂れていた。
「あれから、グスタフが欠かさず手入れと世話をしていたようですからね」
 アルバートは眼鏡のブリッジを押し上げた。本来なら罰を受ける筈の庭師グスタフは、『あのとき』マリオンによって助けられたようなものなのだ。
「あなたが知っている城内の『シュタインの素敵なところ』といったら、たかが知れてますからね」
 確かにその通りだけど。アルバートが覚えていたなんて。
「どうしたのです?なにが可笑しいのですか?」
 知らず笑みがこぼれていたらしい。
「ううん、ちょっと嬉しくて。ありがとう、アルバート」
 マリオンが更に笑みを深めた瞬間。
今度は見間違えようのないほどに、アルバートの頬は赤く染まった。


to be continued.


思っていたよりも長くなってしまいました。続きはアルバート視点になりま…すのかな?

May 14, 2014

野ばらのような、あなた I



青く澄み渡った空の上空に、白い羽根のような巻雲が流れていく。
シュタイン王国騎士団長アルバート・ブルクハルトは、眼鏡の縁をそっと押さえて小さく息をつく。
国境の唐檜の森には大きな天幕が幾つも張られ、騎士団は二個中隊が待機している。
南のウィスタリア地方は豪雨だと、伝令が報告して来たのは2日ほど前のことだった。昨晩未明には天候が回復したということだが、果たしてやって来るのだろうか。いや、来なければならないのだ。
シュタイン王国とウィスタリア王国の友好条約調印式が、今日執り行われるのだから。
国境を挟んでちょうど1マイルほど先に、ウィスタリア騎士団の駐留天幕がある。が、まだ主が到着していない。
「アルバート様。ウィスタリアより急使です」
声をかけられた騎士団長は、視線を空から地上に戻した。明るい所を見続けていたせいで、視界が暗く反転した。瞼を閉じゆっくりと開くと、眼前に従騎士のエミールと見知らぬ騎士が立っていた。
エミールがさっと敬礼する。その隣のウィスタリアの若い騎士は腰を下げ、片膝をついた。
「余計な挨拶は結構だ。用件のみ述べよ」
「は。ウィスタリア騎士団ニコラ・ダヴィア、謹んでお伝え申し上げます。本日早朝、プリンセスが乗られた馬車が脱輪致しました。先日の雨の影響で道悪く…ぬかるみを避けたはずみに踏み外した模様です。幸い馬車の転倒はありませんでした」
騎士団長は瞠目した。
「プリンセスは、無事なのか?」
「はい。『大丈夫だ』と。『遅れてしまいますが、必ず参ります』と、プリンセスより直截賜ってまいりました。こちらへの到着時刻ですが…」
一瞬ウィスタリア騎士の声が遠ざかり、花咲くような笑顔とそして、やわらかなメゾソプラノの声が彼の耳に蘇る。
「大丈夫だから、アルバート」




ウィスタリアのプリンセスは、国を守る為無実であることを証明する為に、自らシュタイン王国の「人質」となった。彼女は国にかけられた誤解を解く為に、事件の調査にも同行し、城外視察や会議に出てはいるものの。今回の事件により仮想敵国の国主代理と判断されている以上、実際はやはり人質として軟禁状態であった。
自国の側仕えの女官も下女もつけず、一人きりでこの国にやって来たプリンセス。事件に関係する公務同行や会議のないときには、宛てがわれた部屋で過ごすことになる。無論、城内ならばある程度の範囲を出歩くことは出来る。が、それは必ず監視係をつけられてのものだった。そして外国の慣れない地で敵と見なされながら過ごすことは、窮屈なだけでなく、心情的にも重く苦しいものであろうことは簡単に想像出来た。

城内の東庭園から もプリンセスの滞在する貴賓室はよく見える。城郭の内側に面した館の2階、誰からも分かる位置にあるのは、監視しやすい為だ。だが、「人質」としては破格 の待遇でシュタインは彼女を扱っていた。最高の客室を誂え、不便の無いよう身の回りの用意も全てこちらで揃えているのだ。多分、ウィスタリアにいるときと変わらない内容で。単純に国賓として接待するだけならば、まだ大分楽だったはずなのだ。事件解決の兆しは見えて来たが、まだしばらく時間はかかりそうだ。
若き騎士団長は修練棟に向かうため、 この庭園を横切ろうとしていた。
貴賓室の張り出し窓に金色の影が見える。プリンセスが外を眺めているのだろう、と騎士団長は思った。会談の後の燃えるように強い眼差しを思い出す。指の先が真っ白になるほどに自分の両手を握りしめて震えを押さえていた、あのときの顔。不安と恐れの中でも、ただひたすらに真直ぐこちらを見つめていた。だから、 こちらも目を反らすことなど出来なかった。
そんなことを思い出しながら、やがてプリンセスの部屋の真下まで辿り着くと、足を止めて見上げた。
外を眺めていたプリンセスはこちらに気づいたのか、視線をこちらへ降ろした。ガラス越しに目が合う。金色の長い髪を結いもせず長く垂らし、紺色の質素な、まるで修道女のようなドレスを身に纏っていた。あのときとは違い、何の感情も読み取れない。それでもこちらを真直ぐに射抜くような視線だ。透明な青い眼差しが彼を捉えて放さない。彼は瞬きのかわりに眼鏡を指で押し上げた。すると、プリンセスはふいっと奥へ姿を消してしまった。
騎士団長は嘆息する。彼女は自分にだけ笑顔を見せない。


その翌日。
執務室にほど近い中庭のベンチにユーリとプリンセスが並んで座っていた。このまま行けば、彼らが気づくだろう。こちらから声をかけるのもなんとなく躊躇われて、そのまま歩みを止めてしまった。
「じゃあ、今度料理長に頼んであげるよ」
「ええ?いいの?」
 どうやら晩餐のデザートについて話しているようだ。
「せめて食事くらいはマリオン様が望む通りにしてあげたいし」
「ありがとう、ユーリ」
プリンセスがユーリに向かってにっこりと微笑む。
「うん。その笑顔が見たかったから」
ユーリは彼女の頬にかかる髪を指でそっとすくって耳にかけた。
プリンセスの微笑みはやがて小さなはにかみに変わり、顔を俯かせ囁くような小さな声でユーリに何かを話している。
「…うん。俺、マリオン様の力になりたいから。大丈夫だよ」
プリンセスの肩をそっと抱きながらそう答えて、ユーリがこちらを向いた。
「やだなあ、アル。立ち聞き?」
プリンセスははっと顔を上げてアルバートを見た。またあの透明な視線かと思ったが、単に驚いたような、そんな顔だった。
「ユーリ、ここはウィスタリアじゃない」
「知ってるよ。それがなにか?」
「貴様は自分が何であるのか忘れたのか」
「忘れるわけないよ」
厳しい表情の騎士団長に対し、ユーリは笑顔を崩さない。
「いくらゼノ様の庇護があるからと言って、そんなふるまいを晒していれば…」
「宮廷の妖怪爺どもが黙っちゃいない、でしょ。わかってるって」
プリンセスは目を丸く見開いてユーリを、そしてアルバートを見上げた。
「どこにもいるのね妖怪って…」
ぽつりと呟いたのをアルバートは聞き逃さなかった。片眉をぴくりと上げてプリンセスを見下ろすと、彼女は肩を竦めた。
「失礼」とアルバートに軽く首をかしげ、ユーリの方を向く。
「でも、ユーリ。ブルクハルト卿のおっしゃる通りだわ。わざわざ目に留まるようなことしない方がいいに決まってる」
プリンセスはベンチから立った。
「今日は、もう充分息抜き出来たし」
「庭園に行かなくていいの?」
うーん…プリンセスは両手を上に挙げて大きく伸びをすると 、ふうっと息をついてユーリとアルバートを交互に見つめた。
「うん。また今度…があったらね、そのときでいい」
 ね?とユーリの瞳を覗きこんで微笑み。
「ブルクハルト卿、ご忠告ありがとうございました」
両手を脇に降ろしドレスの裾を軽く摘み、膝を曲げてお辞儀する。
「…いえ、礼には及びません」
顔を上げたプリンセスと目が合う。口元だけに笑みを浮かべ、相変わらずの眼差しだ。
「あれ、どうしたの?二人で黙って見つめ合っちゃって」
ユーリがからかうような言い方をしたせいなのか、プリンセスはぷいと目を反らした。少し耳が赤い。
「おかしな言い方はやめろ」
それから、と。騎士団長は一旦言葉を切った。
「アルバートで結構です、プリンセス」




「あと、二刻ほどで到着するようです」
騎士団長は国王に報告する。
「そうか。プリンセスが無事でこちらに向かっているなら、問題ない」
天幕の奥で国王ゼノは椅子に座り、書類を読んでいた。傍らのテーブルには幾つか書簡が乗っている。明り取りの窓から差し込む昼の光が、ゼノの整った顔に濃い影を落とす。
「王宮を離れて、のんびりする時間を作ってくれたプリンセスには感謝しなければな」
と目元を緩め、手にしていた書類をテーブルに放ると頬杖をついて騎士団長を見上げた。
「そうだな、アル。久しぶりに一局どうだ?」
「チェスをお持ちに?」
ゼノは天幕の奥に視線を送った。すると控えていた小姓がトランクを開け、チェスセットを取り出すと、恭しい歩みでこちらへ持って来た。
「どうせ、出発時から待つことになるのはわかっていたからな」
「そうですね…」
アルバートは用意されたもう一脚の椅子に座り、チェス盤を広げた。


to be continued...

→野ばらのような、あなた II

初出:2013年8月29日

May 9, 2014

Intermezzo *Grumo di Zucchero*

控えの間の女官に呼ばれて扉を開けると、そこには黒づくめのインケン眼鏡男(プリンセス談)が立っていた。
「ブルクハルト様」
ルルは慌ててお辞儀する。
「プリンセスはいらっしゃいますか?」
「ご休憩中にございます」
「話し声が聞こえたが」
チッ…危うく舌打ちしそうになったが、その表情をおくびにも出さずにっこりと微笑む。
「失礼致しました。これからお休みになるところです。お引き取りくださいませ」
ルルは貴族然とした麗しい仕草で、ドレスの裾をつまんで腰を落としてお辞儀する。
「時間は取らせない。少し会わせていただきたい」
顔を上げると、冴え冴えとした眼差しに射すくめられ、ルルはうろたえた。
どうしよう。
マリオン様ご自身は、本当は…多分。いち、に、さん、し…口の中で数えて息を整える。
「かしこまりました」
表情の少ない騎士団長があからさまにほっとした顔を見せたので、ルルは思わず目を見開いた。
けれども。
「手短にお願い致します。この間の『ちょっとお散歩』では困ります」

女官の貼付けたような笑顔と言葉に、アルバートは一瞬彼女から目を反らし、改めて見下ろした。
「晩餐のお召し替えのとき、 私、気づきましたの」
こちらを睨め付けながら、女官は言葉を続ける。
「マリオン様のドレスが汚れておりました。まあ、外に出ると大抵…帰りは何かしら汚してお戻りになりますから、それはよろしいのです」
彼女はひと呼吸おいた。
「どういうわけでしょう。ドレスの腰のリボンが2箇所ほど、縦結びになっていたのです。
マリオン様は正直それほど器用でいらっしゃらないので、ご自分で直されたのかもしれませんが…」
「それが?」
女官の言いたいことの察しはついた。が、事実を述べようにも言い訳と捉えられるに過ぎず、過大な当て推量で面倒なことになりかねない。アルバートはため息をついた。
「申し訳ございません。私めのただのひとり言にございます」 
女官はしずしずと後ろに下がった。
「どうぞお通りください」
彼女なりに己の主人を守りたいのだろう。なぜか子猫が必死に威嚇する様が脳裏に浮かんだ。…とすると、自分がなんとなく悪者のようではないか。それは違うだろう。
「私はお茶を用意してまいります故、失礼致します」
 後ろから聞こえた女官の声にはっとした。扉のノブに手をかけたまま止まっていたらしい。彼女が去るのを確認して、アルバートはプリンセスのいる部屋の扉を叩いた。


fin.

初出:2013年8月19日





Arancia Cioccolato おまけエピソードです。一緒にupするハズが取りこぼしておりました。

取り次ぎ女官がルルを呼びに来る→騎士団長参上→マリオンの部屋に突入…ちょっと待ったー という流れです。
Grumo di Zucchero はイッタリアーノで角砂糖。とくに意味はないッスおっす。
ところでアルの目の色って何色だろ?黒?セピア?

 

Apr 23, 2014

Arancia Cioccolato

それは。
甘くて苦い、苦くて甘い。

「マリオン様? もうそろそろおやめになったらいかがですか?」
ルルはソファに寝そべったままチョコレートをつまむプリンセスを見て、ため息をついた。
「そりゃあ、私が山盛り持って来たのがいけないんですけど」
「ルルも食べてよ。私一人じゃ無理よ」
指についたチョコをぺろりと舐めるとのそのそと起き上がり、小さくおくびを出した。ちらり、とルルが見咎めたような視線を向けて来たが気にしない。
「息がオレンジの匂いになっちゃったわ」
「お口はチョコ色ですね」
「うっそ!」
ルルはクスッと笑って、自分の口端をつついて見せた。マリオンは慌てて口を拭う。
オレンジピールのチョコレートは、プリンセスの最近のお気に入りだ。なので、修練場から連れ戻す為の口実に用意したのだけれど。やけ食いのように頬張る己の主人に、食べ物で釣ったのは失敗だったかも…と後悔していた。そして、このデザートを力一杯用意してくれた厨房の料理人達を少々恨めしく思った。
「では、いただきます」
ルルは傍のオットマンに腰掛けて、テーブルの上の銀の皿に乗ったチョコレートをつまんだ。
「うわ、おいしいですね、これ!!」
「でしょ? 遠慮はいらないわ…というか、後は任せたわ、ルル」
ルルがにこにこしながらオレンジピールチョコを食べ始めたのを見て、ソファに座り直したマリオンは、右袖をたくし上げて眺めた。
右手はもうなんともない。言われた通りにすぐ冷やしたから。

久しぶりに振るった剣の感触は悪くなかった。むしろ気持ちいいくらいだった。本来の自分の役目からは遠く離れたことだけど、決していけないことではないはずだと思っていたのに。
公務の為に修練場を去った国王を見送って、騎士団長に向き直ったそのとき。
「まったく無茶をされる方だ」
いきなり右腕を掴まれた。
「えっ?」
驚くと同時に、痺れるような痛みが手首を走る。マリオンは眉を顰めてアルバートを見上げた。
「痛いでしょう。このまま続ければ筋を痛める」
アルバートは多分、力を込めてない。でも、マリオンはその手を振りほどくことが出来なかった。
「後半の剣のさばき方は明らかに…疲れていたな。毎日剣を握っていないのに、力任せに振り回すからだ」
あきれたような声で言われて、ついむっとして睨みつけようとした途端、手を放された。
「…大丈夫だもん」
マリオンはアルバートからそっぽを向いて手を2〜3度振った。痛いというよりも、自分の手ではないような重さが残った。
「貴女が大丈夫でも、周りはそうではない」
アルバートはマリオンの後ろを見やった。心配そうにこちらを見つめるルルの姿がそこにあった。 そして心配する以上に好奇心満々な騎士達の姿も。
「マリオン様?」
心細げな声が自分を呼ぶ。
「わかったわよ。今日はこれで終わりにする」
 アルバートの言う通りだ。正直なところ、もうこれ以上剣を握って振ることは出来そうにない。ましてや相手は騎士団長だ。なんだか負けたような気がする。敵いっこないっていうのはわかっているけれど、なんだか悔しい。
瞬きはせずに、アルバートを見つめる。
「そんな目で見るな」
マリオンにだけ聞こえる声でアルバートは囁いた。その瞬間の少し困ったような表情も、彼女の瞳だけに映った。


「ブルクハルト様がすぐお気づきになられてよかったですよ」
右手を眺めるマリオンに気づいて、ルルはうんうんと頷いた。
「大事に至らなくて、安心しましたわ」
マリオン自身の公務に差し支えるし、ウィスタリアで待っている面々を思い浮かべると、背筋が冷え冷えとするのはルルの気のせいではない。きちんとプリンセスのお側付を全うしなくては。けれど、ルルもまた「堅苦しい」のは好きではないのだ。
「次回お相手してくださるって、おっしゃってたじゃないですか」
視線を右手からルルに移して、マリオンは小さく息をついた。
「お忙しい騎士団長サマが、私ごときにつきあってくれるのかしら?」
若干…かなり拗ねた物言いに、ルルは肩を竦めた。
「もちろんですよ、マリオン様」
マリオン様を放っておくわけないじゃないですか、あの方が!と言いたいところだったけれど、それを言ったら言ったでなぜか機嫌が悪くなるのだ。いや、悪くなるのではなく、悪く見せるのだ。なんて素直じゃないプリンセス。しかし、ルルにはそこがなんとなく微笑ましく思えた。
「お茶が冷めてきましたから、新しいものをお持ちします」
ルルが席を立とうとしたとき、扉を叩く音が聞こえた。控えの間の女官の声がルルを呼んでいる。
「では失礼致します、マリオン様」

ルルが扉の向こうに姿を消したのを見ると、マリオンは再びソファに寝そべった。この後は夕刻の城下の視察がある。支度の時間はまだまだ先だ。資料の書類は、既に昨夜目を通してあるからすることもない。
「つまんないなぁ…」
ゼノ様は許可してくれたけれど、アルバートは本当に自分の相手をしてくれるのだろうか。あのときの、泣きそうな気分をアルバートに見破られたような気がして 、マリオンはぎゅっと目を固く閉じた。


再び扉を叩く音が聞こえる。ルルが戻って来たのだろう。
「どうぞー」
体を横にしたまま返事をする。扉が開いたが、いつもの「ただ今戻りましたあッ!」が聞こえて来ない。 では別の女官だろうか?
「随分と優雅な格好だな」
まさかの声に目を見開き、がばっと半身を起こした。椅子から足を降ろしドレスの裾を引き下げ、驚きの顔を極力隠してにっこりと微笑む。
「ごきげんよう騎士団長さま」
扉を背にアルバートが立っていた。いつものように黒い騎士服をかっちりと纏い、いつものように堅苦しい礼儀正しさでこちらを見つめているのはわかった。窓から差す午後の光がアルバートの眼鏡に反射して、彼自身の表情はわからない。
「ご用件は何かしら?」
肩にかかる髪を人差し指で払い、そのついでにドレスの襟元のずれをさっと直した。
「貴女の様子を見に来た」
「え?」
マリオンは大きく見開いた瞳を瞬かせた。手のことを言っているのだろうか?怪我をしたうちには入らないと思うし、アルバートだってそういう風に言ってたのに?
「様子って。いたって元気ですけど?」

いつもならずかずかと近づいて来るのに、部屋の入り口に立ったままのアルバートにマリオンは首を傾げた。
「えっと。せっかくだからお茶でも飲む?もうすぐルルが持って来るはずだし」
わかんないなあ…と思いつつも、「どうぞ」と椅子を勧めた。
「あ、そうだ。チョコレートもあるの、どう?」
「結構」
アルバートはテーブルを挟んで向かい側の椅子に剣帯を外してサーベルを置くと、マリオンの横までやってきてこちらを見下ろした。
「手をみせてください」
マリオンは少し横にずれて座りなおし、さらに「どうぞ」と掌をアルバートに向けた。アルバートは静かに隣に座ると彼女の方へ体を向けて、差し出された手を取った。プリンセスの指から、ふわりと甘い香りが漂う。
「午前中に見てくれたときも、そんなにひどくなかったと思うけど?」
 手首を持つ彼の手を、マリオンは見つめた。自分よりずっと大きくて長い指は、片手で両手を掴めてしまうのだろうな、とぼんやり思った。なんだか頬が熱くなって来たような気がする。
「こんな華奢な手で剣を振り回すとは」
「馬鹿ですか? って??」
マリオンは先回りして呟いた。
「馬鹿ではないが」
「あら、珍しい」
「向こう見ずだな、と」
「ちょっと、それあんまり変わらないじゃない、ひどい」
アルバートは小さく笑った。彼女の手を握ったまま。
「菓子を持っている方が似合う、というと怒るのでしょうね」
案の定、マリオンはムッとした顔つきになり口を尖らせた。
「あの。そりゃさっきまで食べてたけど」
「道理で」
 手を握る力がほんの少し強められて、彼女の体はアルバートの方へ傾いた。
「チョコレートと果物の匂いがする」
アルバートの視線が握られた手から、マリオンの口元に移っていく。耳の奥でとくんとはねた鼓動が早まるのを感じた。

そんなやりとりの間にも。
なぜ手を放してくれないのか、マリオンはアルバートを見上げた。
「アルバート?」
マリオンの視線を受け止めようとせず、軽く目を伏せたが、やがて眼鏡をすっと指先で押さえると躊躇いがちに口を開いた。
「泣いているかと思いました」
「ど、どうして」
思わず手を引こうとしたら、逆に引き寄せられてマリオンはアルバートの胸になだれ込む姿勢になってしまった。
「泣いたりなんか、しないもの」
そのまま額をアルバートの胸元にこつんと当てて目を閉じた。するとふわりと頭になにかが乗せられた。アルバートの手がそっとマリオンの頭を撫でた。そのままやわらかな髪にアルバートは手の平を滑らせながら頭から肩へ、そして背中へ確かめるように撫でていく。
「プリンセスがわざわざ騎士相手に己を試そうとする話はきいたこともない」
「うん。でもいるじゃない、ここに」
マリオンは顔を上げてアルバートを見つめた。見返す瞳は修練場で見たような厳しい眼差しではなかった。
「最初から…もうとっくから、わかっていたけど」
体を起こして、アルバートの肩に両手をかけて囁く。
「試さなくてもわかっていたの。そうじゃなくて、私はただ知りたかっただけだよ…」
「なにを?」
マリオンは覗き込むように顔を近づけた。答える声が言葉になる瞬間、唇が触れ合う。
「アルバートを」
 腰に回されたアルバートの腕にさらに体を引き寄せられて、マリオンはアルバートの首に両腕を絡めた。
再び唇が重なって離れるとアルバートは呟いた。
「…甘い」
 


「お待たせしましたあッ!」
ルルがティーセットの乗ったワゴンを押してプリンセスの部屋に戻って来たとき。騎士団長は腰に剣帯を回し、バックルを留めているところだった。
プリンセスはその向こう側のソファに座って、すまして冷めきったはずのお茶を飲んでいる。ルルが部屋を出たときと同じ位置だ。彼女は二人を交互に見つめた…というより睨んだ(主に騎士団長の方を)。
「ルル?顔がこわいよ??」
指摘されて、慌てて両手で頬を押さえる。
「え?あ、そ、そそ、そんなことないですよ?」
サーベルを佩き終えた騎士団長は女官をちらりと見下ろした。
「それが普段の顔だと思ったが、違うとは驚きです」
思わず顔が引きつるルルだったが。彼女が口を開く前にプリンセスは椅子から立った。
「ルルはかわいいんだから。変なこと言ってからかわないで」
そしてルルのそばに来ると、彼女の肩をがっしと掴んで「ねー?」と微笑む。
「アルバートがそう思うんなら、きっとシュタインに来てからだわ」
「は?」
「誰かさんのせいで心休まらないんだから、そりゃギスギスもするわよねー?」
ルルは一緒に笑えない。その言葉は自分宛ではなく、プリンセス自身のことなんじゃないか、とルルは思った。実際にはプリンセスはこちらに来てから全体的には「ギスギス」していない。
「女官を使ったあてこすりはやめて頂けませんか、プリンセス」
 プリンセスは、「ふん!」と一度そっぽを向いてからアルバートに視線を戻し、口角を上げてにっと笑う。
 「深読みし過ぎー」
「貴女はまったく…」
眉間を押さえる騎士団長に、ルルは慌てて告げる。
「あ、あのっ。ブルクハルト様、お茶をお持ちしましたが…お帰りですか?」
「用件は済んだ」
「あ…はい。かしこまりました」
軽く腰を落としてドレスの裾をつまみ、お辞儀する。そして二人から離れ、部屋の隅に下がった。

「アルバート。約束だからね」
扉を開ける騎士団長にプリンセスは声をかけた。 アルバートは振り返ってプリンセスを見つめる。
「貴女こそ怖じ気づいて逃げないように」
そして、そっと顔を近づけて囁いた。
「口紅がすっかり落ちてしまっている」
耳まで一気に顔を紅く染めたプリンセスは
「アルバートの馬鹿!」
と、騎士団長を扉の向こうに追い出した。


fin.

初出:2013年8月18日






「プリンセスレッスン?」続編に続きに至る幕間劇。プリンセスと女官のティータイムのひととき…のはずが。
「…甘い」の後はなぁ。30分くらいしかないからムリだろ(なにが?)
本番(えっ)は「プリンセスレッスン?」の続編で!
タイトルはイッタリアーノでオレンジチョコ。文中ではオレンジピールチョコなんだけど、そのままタイトルにすると、長いのでオレンジチョコ。
オレンジピールチョコはうまいです(´ρ`)

Apr 18, 2014

プリンセスレッスン?

その日。
シュタイン王国騎士団修練場のホールはざわめきに包まれていた。
石造りのドーム天井に剣戟の響きは届かず、代わりに騎士達のささやき声がこだまする。

「何を考えてるんですか、貴女は」
騎士団長アルバート・ブルクハルトは、目の前のプリンセスを見下ろしてため息をついた。
「見てるだけじゃつまらなくなって。ゼノ様はいいとおっしゃったわ」
ウィ スタリアの勝ち気なプリンセスは、上目遣いでアルバートを見つめる。彼の常からの冷ややかな眼差し故に、酷薄にさえ見える整った面差しに怯むことなく。一 方、アルバートは甘やかな笑みを湛えたその瞳から逃れるように、彼女の横へ視線を反らした。すると、側仕えの女官ルルは両手を合せてアルバートにお願い! ポーズだ。冗談じゃない。
「また適当なことを言って、ゼノ様の言葉を都合よく解釈したんじゃないのか?」
「またって。なによそれ。そんなことしたことないし。とにかく私にも剣を貸してちょうだい」
 ただでさえ…。アルバートは周りを見渡した。
騎士達は訓練に励むそぶりを見せながら、関心をすっかりこちらに向けている。
このプリンセスが修練場の見学に来ただけで、収まりがつかなくなるというのに。
「体を休めるな。各々、自分の勤めを果たせ」
騎士団長の声が響き、剣を打ち合う音が再び聞こえ始めた。


ウィ スタリアのプリンセスは、シュタインに来訪するなり騎士団員の訓練を見たがった。そしてどういうわけか国王はそれを許した。ときどき自分の主君の考えてい ることがわからない。確かに戦術を見せるわけではないし、団員個々の動きを見てプリンセスが用兵術を予想出来るとは考えられない。
「個人的な好奇心よ」
お茶会やダンスパーティに、その好奇心を向けていろと言いたい。多分、自分の知っているどの姫君よりも姫君らしく、認めたくはないが美しい。ただし、それは黙って立っていれば、という前提付だ。動き回る彼女はまったく持って手に負えない。
プ リンセスが見学に来るようになってから、どういうわけか団員達の動きが目に見えて良くなって来た。それは果たして喜ぶべきことなのか、アルバートは眉を顰 める。士気が高まっていると言えば聞こえはいいが、実際のところプリンセスに対して浮ついた祭り状態と見るのが正しいのだろう。
今のところ近隣諸国との関係は安定し、出兵する予定はない。極めて平和な状況といえる。 だが、油断はしていない。
早くこの状態が落ち着けばいい…それは自分自身にも言えることなのだが。

休憩中の年若い従騎士達のそばを通りかかったときのことだ。
「ウィスタリアの騎士の叙任は、プリンセスが行うらしいぞ」
「いいなあ」
「マリオン様から叙任を受けてみたいな」
「そうだ。陛下がマリオン様をお妃にすれば…」
アルバートの足が止まった。彼の気配に従士達の会話はぴたりと止まり、即座に立ち上がって敬礼する。
「今、何を話していた?」
 整列した従騎士達は、無言のまま立ち尽くす。
「何故答えない?」
アルバートの眼鏡を指で押し上げる仕草とその奥の鋭く冷えた眼差しに、従士達は尚更凍りついた。
「申し訳ありません」
「貴様らの、国王陛下への忠誠が揺らいでいるように見えるのは、俺の気のせいか?」
その後。彼らは他の団員の倍、訓練をすることになったのは言うまでもない。
プリンセスに叙任を受けたいという従士の浮かれた願望ではなく、プリンセスがこの国の妃になれば、という言葉にアルバートの心はざわついたのだった。


「ともかく。正直に言って、貴女がここにいると団員達の訓練の妨げになる。遠慮していただきたい」
アルバートはプリンセスに淡々と告げる。ここは遊び場ではない。
プリンセスは下唇をぐっと噛み、両手を握りしめて俯いた。マリオン様帰りましょう、と、普段はお調子者のルルもマリオンの袖を引き、小さく囁いている。
「私…お遊びで言ってるんじゃないわ」
プリンセスは真直ぐにアルバートを見つめてくる。その透き通る眼差しで、また惑わせる気か。
「素人じゃないもの」
は?何を言い出すのだこの姫は。アルバートが口を開きかけたとき。
「陛下がお見えになられた!」
扉近くの騎士が叫んだ。
群がる騎士達の輪が解け、静まり返ったその中から、シュタイン国王が現れた。 漆黒のマントを翻し悠然とした歩みに、皆、頭を下げてその姿を見送る。

「模擬試合のひとつでもしているかと見に来たのだが…」
「ゼノ様!」
アルバートとマリオンは同時に口を開く。声が重なった途端、2人は顔を見合わせ睨み合うと、お互いの視線を反らせた。
「アルバートに掴まったか」
笑みを含んだ呟きに、マリオンはぱっと顔を上げ、国王ゼノを見上げた。
「ゼノ様、アルバートったらひどいの!全然取り合ってくれないんだから」
何がひどいのだ。ひどいのはそっちじゃないか。
「プリンセスに危険な真似はさせられません。ゼノ様がお許しになっても、プリンセスが怪我をしないとは限らない」
マリオンをねめつけながら、アルバートは進言する。
その言葉にむっとしたマリオンを、ゼノは面白そうに見つめた。
「そんなの!やってみなきゃわからないじゃない。剣じゃなくても歩いていたって怪我するときはするのよ!」
「剣の訓練と散歩を一緒にするな。危険の度合いが違う」
「だから、お散歩以上に私、剣は使えるんだから!」
「何を根拠にそんな大口叩くんだ、貴女は」
「まあ待て、アル」
ゼノの声が アルバートを制する。
「このまま言い争っていても仕方がない。そもそもプリンセスがどれだけ扱えるか見てみれば良いだけの話だろう」
黒い眼帯に隠れ片方だけの深藍色の瞳が鋭く辺りを見渡した。ゼノはホールの隅の方の騎士見習い達をみとめると、アルバートに視線で促した。
「トビアス」
アルバートはその中の一人を呼んだ。はい、と返事するその声はまだ声変わりの来ない、あどけなさが残る赤毛の少年のものだった。こちらに小走りに駆けて来ると深々と敬礼した。
「プリンセスの相手をして差し上げろ」
マリオンはそれを聞いてにっこりとほほ笑んだ。
「よろしくね、トビアス」

マリオンはおもむろにドレスのベルトを外した。ルルが袖を抜くのを手伝う。
ドレスを脱ぎ始めたプリンセスに周囲はどよめく。さすがにゼノとアルバートも目を見開いた。
「このままじゃ不公平ですもの。あなた方がドレス着てくれるなら話は別だけど?」
 ドレスの下から現れたのは、レザーのチュニックに(とても!)丈の短いズボン、そしてニーハイブーツという出立ちだった。長い髪も一つに纏めてきっちりと編んであったのは、動きを邪魔しないためだったのか。
「マリオン様!タイツはいてくださいといったのに!!」
ルルが卒倒しそうな声で叫ぶ。ジル様にはこのことを絶対報告出来ないわ!…プリンセスの無頓着な格好に、心の中で涙を流した。
プリンセスを目の前にして、耳まで赤くしていたトビアスは、更にその姿に釘付けになった。
マリオンはそんな周囲の目をまったく意に介さず、鼻歌まじりで手袋をはめている。
わざとだろう…アルバートは苦虫を噛み潰したような顔でマリオンを睨もうとした。が。どうにも直視出来ない。ドレスとはまた違った体の線がはっきりとわかる服とブーツの間に見える白い太腿が眩し過ぎた。
「この剣を使え」
アルバートは用意させた模擬剣をマリオンに向かって放り投げた。練習用で刃と切先は落としてあるものの、重さは「本番」用とさほど変わらない。
「ありがとう」
マリオンが軽々と受け取ったのを見て、確かに剣を触ったことはあるようだ、と思った。
「剣ってこんなに重かったっけ?さすがに騎士サマが使うのは違うわね」

素人じゃない!と言い張るだけあって、マリオンの剣さばきはそれなりに優れたものだった。といっても相手は10代半ばにも満たない半人前だ。手を抜くな、と言ってはあるが女性に免疫のない少年では、彼女を止めるのは無理かも知れない。
「14になるまで、剣の稽古を受けていたと話していた」
ゼノがぽつりと呟いた。
「騎士の家の生まれだそうだが、跡目がなく家の為に剣を持つことにした、と」
それが巡り巡って、プリンセスとは。ウィスタリアは面白い国だ、とゼノは小さく笑う。
確かに、あの筋金入りのじゃじゃ馬具合はその育ちも関係あるのだろうと、アルバートは頷いた。
なのに、ふとした拍子にひどく儚い顔を見せるのだ。何故か自分と二人きりのときに。今の強気ぶりではけして気づけない、その危うさに目が離せない。
眼前に繰り広げられている模擬試合においては、マリオンの動きはそつがなく美しい。だが、所詮は型通りの演技で実践向けではない。多分彼女自身もそれはわかっているのだろう、だからここで剣を振るってみたいと言いだしたのだ。
「わかりました、ゼノ様」
では、騎士としてふるまってみせようではないか。

マリオンはトビアスから2本先取して、「勝ち」となった。
「ありがとう、トビアス」
マリオンは相手をしてくれた少年従士に、右手を差し出した。再び頬を染めて彼はプリンセスの手を握る。すると。
マリオンはそのまま少年の手を掴んで体を引き寄せ、汗ばむ彼の頬に軽く口づけた。
途端に周囲はどよめいた。羨望の声に包まれて、少年は呆然と頬を押さえて立ち尽くしていた。彼の忠誠心がプリンセスに大きく傾いた瞬間だったかも知れない。
その様子を見ていた王と騎士団長の視線には、明らかに差があった。興味深げに眺めるゼノと憮然と少年を見据えるアルバートの様子に、気づいたものはいなかった。
「なかなか見事なものだな。面白いものを見せてもらった」
ゼノの言葉に、マリオンはプリンセスらしく左の膝を軽く落としてお辞儀する。
「こちらこそ、機会を与えてくださいましてありがとうございます」
「なんだ、それでもう満足なのか」
苦々しい響きを含んだ声がマリオンの耳に届く。顔を上げると、ゼノの隣のアルバートと目が合った。
「せっかく相手して差し上げようと思ったのに」
眼鏡を指先で押し上げる仕草に、マリオンはふんッと横をむく。
「さっきまで散々ダメだダメだ言ってたくせに」
じろりとアルバートを睨んでくるけれど、それがどうしたと軽く見返す。
「ゼノ様ご自身の言葉に従い、事実を確認したまでだ」
 それを聞いた途端、プリンセスの顔に血が上って行くのが見て取れる。
「いいわ!それではアルバート。お相手して頂こうじゃないの!」
あわててルルがマリオンの体を押しとどめようとしたとき。
いつのまにかやって来ていた宮臣達が、彼らの前に進み出た。
「陛下、次の公務のお時間でございます」
お支度を、と叩頭する。
「ああ。残念だな。俺はもう行くが、気が済むまでアルと手合わせしてもらえ」
「ゼノ様!」
「プリンセスの相手は、お前が適任だろう?」
言い返そうとするアルバートを視線で制し、国王は宮臣を従え去って行こうとしたが、思い出したように振り返ってマリオンに告げた。
「あまり懸命になりすぎるなよ、プリンセス」


to be continued...


初出:2013年8月11日

Apr 13, 2014

星屑の囁き

この国でしたいことはなにかあるか?と国王が問うたとき、プリンセスは答えた。
「騎士団の訓練を見学したく思います」

修練場の中央ホールは吹き抜けになっていて、中二階のバルコニーでプリンセスは騎士団員の様子を見学することとなった。
普段、出歩くときはウィスタリアから連れて来た若い女官を伴っているのだが、修練場には一人で訪れる。
始めの頃は訝しげにその姿を眺めていた騎士達も、プリンセスが本当に「ただ見学するだけ」というのを見て取ってからは気にしないようになっていた。
その筈だった。
きっかけは、ある日1時間以上立ったままのプリンセスに気づいた一人の従騎士が、椅子を勧めたことだった。
見学を終えたプリンセスはバルコニーから降りて来て、その従騎士に言葉をかけた。
多分、椅子に対するお礼だったはずだ。
間近に見るプリンセスの姿に、騎士達は少しの間、修練の手を止めていたかも知れない。幸運にも騎士団長は国境視察に出ていて留守だったので。
翌日。件の従騎士は、初めて同期から1本を取ることが出来た。ずっと敵わなかった相手から、ついに一勝して喜びの声を上げたとき、プリンセスがこちらに向かってほほ笑んでいたのを彼は見逃さなかった。
この日もまた、プリンセスは帰り際にバルコニーから降りて来て、従騎士に声をかけた。今度は彼一人だけでなく、一緒にいた彼の仲間2〜3人とも言葉を交わした。
プリンセスが修練場を訪れるようになってから1週間を過ぎる頃には、彼女と騎士達の間はすっかり打ち解けていた。それどころか、騎士達は以前にもまして修練に励むようになっていた。

国内外の情勢が安定している現在、騎士団派遣も少なくなり団員の気も緩みがちなのだが、それに反して士気が高まっているというのは不思議な話だ、と国王は修練場を訪れてみた。
バルコニーにはいつものようにプリンセスの姿があった。
「熱心だな、プリンセス」
「国王陛下」
プリンセスは椅子から立つと、流れるような仕草でレディのお辞儀をする。
「お言葉に甘えて見学させていただいております」
「女性はこういうものには興味がないと思っていたが」
「ときには好きな女もいるのです。たとえば、陛下の目の前に」
軽く首を傾げてほほ笑む。
そういう仕草は姫君そのものなのに、どういうわけか相手が騎士団長となると雰囲気ががらりと変わる。同じ騎士のユーリに対しては、自分と同じように柔らかな物腰なのだが。それはそれで面白く、このプリンセスのおかげで珍しい展開が起こりつつあるようだ。
「ああ、構わない」
王はプリンセスに椅子に座るよう促した。
「俺は長居はしない。気にするな」

国王と隣国のプリンセスの姿を頭上にちらりと見やり会釈をした後、騎士団長はため息をつく。
「いつにもまして機嫌が悪いね、アルバート様?」
後ろから、からかうような声がする。
「用もないのにうろつくな、ユーリ」
振り返ると騎士服に身を包んだユーリが立っていた。
「ひどいな、アル。俺だって騎士なのにさ」
アルバートに一歩近づく。
「今日はゼノ様もご覧になっているというのに、どうしてそんなにしかめっ面?」
ユーリは腰の剣を抜き、その剣先をアルバートに向けた。
「ゼノ様とプリンセスが一緒だと気になる?」
「何が気になるというんだ?」
アルバートも静かに剣を抜いた。
「あはは。とぼけないでよ、まあいいか」
ユーリは自分よりも背の高いアルバートを斜めに見上げる。
「久しぶりに手合わせしてよ。今日はなんだか勝てそうな気がするな」
「軽口を叩けるのも今のうちだ」
剣のぶつかり合う音が響いた。

「真剣で?」
プリンセスは立ち上がって階下の2人を見た。
「長年の付き合いだからな、お互いの力量を心得ている。心配はないだろう」
ゼノはバルコニーの手すりに腰かけ、何でもないように見下ろしている。
 的確に打ち込んでは躱す、無駄のない動きは洗練された美しいものだった。
「あまり夢中になると落ちるぞ」
手すりから乗り出すように見入るプリンセスの体をゼノはさりげなく引き戻した。腰に回されたゼノの腕に気づいて、耳が熱くなる。
「素晴らしいのでつい…すみません」
肩をすくめて小さく笑うと椅子に座りなおす。
「どちらが強いんでしょうか?」
「どちらだと思う?」
剣を打ち合う二人の動きは全く互角のように見える。
「二人ともとても強いと思います。力は…アルバートの方があるのかしら」
「そうだな。実力としてはアルの方が上だろう。だが、ユーリは相手の油断と隙を見逃さない」
体が華奢な分、身のこなしは軽やかで攻撃はとても素早い。その上で相手の間隙を突くのか。でも、その早さに劣らぬアルバートに隙があるようには見えない。
「ユーリは、今日こそは勝てると踏んで臨んだのだろうな」
ゼノは口の端を緩めた。
「え?陛下。その言い方では、ユーリは…」
 プリンセスはゼノを見つめたが、彼は黙ったまま視線を下に降ろした。プリンセスもまた、再び階下の試合を見守った。

石の床に鋭い音が響き、剣が落ちて滑って行った。
ユーリの鼻先にはアルバートの剣先がぴたりと据えられていた。
「勝てると思ったのに」
「その慢心がお前の負けを呼ぶんだ」
 アルバートは剣を降ろして鞘に収めた。そしてこちらを眺めていた二人に会釈し、ユーリを振り返りもせず、その場を立ち去って行く。
「思った以上に、かっこつけるタイプだったんだな。まあ俺もそうなんだけど」
自嘲気味にユーリは呟いた。落とした剣を従騎士から受け取り着衣を整えると、ユーリは階上に向かって手をふった。
「ゼノ様!マリオン様!」

「アルバートが勝っちゃいましたね」
マリオンはゼノを振り返った。かすかに頬を上気させ、目を輝かせているその顔を見ないで去るとは残念な男だ、とゼノは思った。
「あんな風に剣が振るえたらいいのになあ」
ゼノは自分の耳を疑った。


跡目を失った騎士の家に生まれたのだと語った。父のことは尊敬していたので手助けになりたいと思い、自分も剣を手にしてみた、と。自分でもいけるのではと思ったが、結局は女であることがそれを叶えさせる全ての妨げになった。
なのに、今は女である故にプリンセスとなってここにいる。
「かつての夢を見せてくれるのです。叶わなかったとしても、今はそれが辛いことだとは思いません。星になれなかった欠片もまた自分なのですから」
そこまで話してマリオンは、自分が語った相手を思い出した。親でも友人でもない、ましてや。
「すみません、ずうずうしくも自分のことばかり話してしまいました」
頭を下げ、長い睫毛を伏せる。
「 お忘れください」
「何故忘れる必要がある?」
ゼノの深い眼差しに、マリオンは返す言葉を失った。
「おまえの話を聞けてよかった」
その声は低く優しい。
「陛下。ありがとうございます」
だから、みなこの国王に忠誠を誓い、従うのだ。マリオンは更に頭を下げた。
「顔を上げろ、プリンセス。それから陛下というのは無しだ、名前を呼べ」
え?思わずがばっと顔を上げた。
「ではな、マリオン。次は夕食のときに」

「マリオン様。まだ見ているの?」
ユーリがゼノと入れ替わりにやって来た。
「あ、ユーリ。おつかれさま。残念だったね」
「勝てる筈だったんだけどな」
ユーリはマリオンに手を差し伸べた。その手を軽く握ってマリオンは席を立つ。
「ゼノ様も、ユーリは勝てると思ったんだろうって言ってたわよ?」
「え?」
「ん?」
目を丸く見開いたユーリに、マリオンは首を傾げた。
「ははっ。ゼノ様にはお見通しかあ…ってマリオン様?」
ユーリはマリオンの言葉に気づいた。
「 陛下とは呼ばないんだ?」
「名前を呼ぶようにっておっしゃったわ、さっき」
「ふーん」
「どうしたの?」
「シュタインとウィスタリアの距離が縮まったなあって思って」
「そう思う?」
「思う思う」
やったぁ外交は順調ね!とばかりにガッツポーズで喜ぶマリオンを眺めながら、 ユーリは思いついたように笑い始めた。
「あ、そうだ。マリオン様、今度アルがいるときにゼノ様の名前を呼んでみてよ」
「え?どうして??」
「そのときのアルの顔を見たいんだよね、俺」
「どうして?」
わからないの?と訊くと、マリオンはぶんぶんと首を縦にふって頷いた。
「全然わかんない。アルバートの顔見て楽しいの?」
「うん」
仲良しなんだね、とマリオンの全く見当違いの言葉に、ユーリは苦笑するほかなかった。



 fin.

初出:2013年8月1日

Apr 10, 2014

苦くて、甘い。

午後は自由に過ごして構わないんですって!! と、扉を開けるなり、ルルは叫んだ。
「というお達しを陛下から賜りましたあッ!!」
ルルはあわててドレスの裾をつまんで一礼する。
顔を上げたその先の、テーブルに積まれ無造作にページが開かれたままの本達の向こうに、およそレディらしからぬ格好で本を読むプリンセスの姿があった。
ウィスタリアからついて来たこの元気あふれる女官を、プリンセスはちらりと一瞥した。
「ふう~ン。それじゃあ借りたコレ、結構おもしろいから読んじゃおうかな」
ソファに片足を乗せてその膝に頬杖をつきながら、もう片膝に乗せた分厚い本のページをめくる手を休めない。
「シュタインの女官がみたらひっくり返りますよ、そのお姿」
レースのペチコートがドレスの下から覗いている。
「いいの、これ見せペチだから・・・っていうか、そんなの今更。でしょ」
パタンと音を立てて本を閉じ、ソファの脇に置くと足を降ろし、もそもそと足先で床をまさぐった。
「・・んもう。お靴はこちらですよ!!」
ルルは自分の足元と、テーブルの下に転がったプリンセスのミュールを拾い上げた。
「ありがと、ルル」
ルルが履かせてくれるのを眺めながら、プリンセスはふう、と小さく息をついた。
この子はきっと後をついて来るに違いない。
「そうだ。ご褒美として、あなたにも自由時間を進呈しましょう」
とてつもなく綺麗な微笑をうかべてみせた。

お供します!!という女官に、適当なお使いを言い渡し(無理矢理置き去りにして)、プリンセスは散歩へ出た。
この間は東の庭園に行ったから、今度は西に行ってみよう。ルルには悪いが、たまには一人でぼんやりしたいのだ。
「向こうの林の小道の先にも小さな庭園があって。そうだな、マリオンさまの好きそうな木があったかな?」
ユーリが意味ありげに小さく笑ったのを思い出したのだ。
手入れはされているけれど、あまり人が通らないのか、石畳の隙間のあちこちに小さな草が生えていた。
「なるほどー」
マリオンはうんうん、と頷く。
「これはいいカンジかも」
小道の石畳は途絶え、林はやがて灌木の茂みとなり、ドレスの裾を枝に持って行かれないよう気をつけながら歩いていくと、突然開けた場所に出た。
「ここかあ」
小さな泉と石造りの東屋。東屋の横には大きな楡の木が立っていた。
花壇や鉄柵があるものの、世話をされていないのか植えられたものか自生なのかわからない植物が茂っている。
「お城から離れ過ぎてて、放置されているってこと?」
枯れかけた草の下に、若緑の芽がみえる。
「それとも、わざと?」
マリオンはかがんで枯れ草を引っ張ってみた。力を入れて引くとごっそりと藁束のように草が毟れて、花壇の縁石と黒い地面が見えた。そしていくつもの小さな花と思える草の芽が姿を現した。
「ヒミツの花園ごっこができそう」
腕組みしながら、緑の芽を眺めて。
「でも、ちゃんとした花園になるまでは、いられないか」
予定では、シュタイン滞在はあと2週間だ。
泉の周りの花壇から離れて、大きな楡の木の下までやってきた。
目を細めて、振り仰ぐ。
「園芸ごっこより、こっちだよね」
丸い葉がいくつにも透明な緑に重なって、真昼の光を柔らかくマリオンの頭に落としていた。
ミュールを脱いで背中のリボンに挟むと、ドレスの裾を思い切りたくし上げてそれも腰のリボンに挟み込み。
「ドレス着てるから、ムリでしょうって?ノンノーン舐めてもらっちゃ困りますよっと」
木の幹にちょうどよい位置に窪みをみつけると、慣れた様子で足をかけた。


ウィスタリアのプリンセス付の女官、ルルは厨房から戻るところだった。
西日の射し始めた回廊を小走りにかけて行く。
「いっけなーい。つい話し込んじゃった」
足を止め、手に抱えた籠の中を覗いた。プリンセスの好きな焼き菓子と、この国名産という果物が入っている。
シュタインの男共は、ウィスタリアと違って大抵いつみても仏頂面なんだけど、声かけてみると意外とチョロいのよね。
昨日の晩餐のデザートが素晴らしかったのでぜひお礼を言いたい、と厨房に乗り込んだときの戦利品を眺めて、にんまりと笑った。
それにしても。そろそろ午後のお茶の時間には遅い時間になってしまう。プリンセスは部屋に戻って来ているだろうか?
「おい」
「ヒャッ!!」
いきなり背後から低い声。
これは、ひょっとして。おそるおそる振り返ってみると。ああ、やっぱり背の高いインケン眼鏡男(プリンセス談)だ。
「ご、ごきげんよう。ブルクハルト様。廊下走ってすみません!!」
先手必勝!謝り勝ち!とばかりに、ルルは大きく頭を下げた。
「いや。…お前の主人もそれくらい素直ならいいのだが」
きたよ…と思い、なおも頭を下げてルルはやり過ごそうとした。
「部屋の扉は開けっ放し。読みかけの本は開いたまま」
うわ、失敗した!それはマリオン様じゃなくて私が片付け損ねてただけなのにッ!! ルルは首元からかあっと熱が上がって来るのを感じた。
「ち、ちがいます。それは私が片付けるのを忘れて」
国王の忠実なる騎士アルバート・ブルクハルトは、目を眇めてちらりとルルを見降ろした。
「マっ、マリオン様の身の周りは、私がっ、きちんとお世話をしなければ、なので!マリオン様が悪いわけじゃ…」
「ヤツは、自分のことは自分でするから!と宣言していたが?」
何故? この騎士は、どうして!いつもいつも!いちいちいちいち!プリンセスに突っかかって来るんだろう?というか、どうしてプリンセスの部屋の状態を、この人が知ってるの? ルルの頭の中の疑問符は、この日も増えつつあった。
「あれ?」
ルルは、はたと気づいた。
「あの。マリオン様は、まだお部屋にお戻りになってなかったのでしょうか?」
「だからお前を呼び止めた」
本の続きを読みたいから、すぐに戻ってくる。そしたらお茶にしよう、そう彼女は告げて部屋を出たのだ。
「マリオン様はすぐに戻ると…」
そう言ってからどれくらい経っているのだろう?
「どこに行った?」
え?たかが2時間程度なのに。姿が見えないだけで、そんな顔して問いつめないでよッ!! ルルは心の中で叫んだ。



ポスッと小さな音を立てて、ミュールが木の下に落ちて転がった。
「あ…」
どうやら眠っていたらしい。木の枝に座っているのもそろそろ辛くなって来た。周りは充分に明るいけれど、少し黄昏色を帯び始めている。
両手を上に広げて伸びをして。
「かえりますか」
降りようと思ったそのとき。草を踏む音が近づいて来た。動物だろうか? 熊…はさすがにいないだろうけど、鹿とか狐とか?枝葉が邪魔をして姿がよく見えない。
やがて、足音の主の姿が木の真下にやってきた。
「熊の方がよかったわ・・・」
黒い騎士服に身を包んだ背の高い男の姿がそこにあった。


「・・・だからマリオン様には俺が付くっていったのに。いいよ、俺が迎えにいくよ」
ユーリは執務室で書簡整理をしていた。最後の一通をぽんと箱に投げ入れると、席を立つ。
「場所は俺もわかる」
ユーリを制するように、アルバートは低く言い放つ。
一緒に引っ張って来た女官に話をさせ、ユーリを問いただして、プリンセスの行き先がわかったのだった。
「アルバートはさあ、突然なんだよね」
部屋を出ようとしたアルバートは振り返る。ユーリは机に片手をついて寄りかかりながら、ペーパーナイフを指先で軽く弾いていた。やがて、視線をアルバートに移して言葉を続ける。
「予想外のことが起こったら笑うしかないよね・・って、マリオン様が言ってたよ」
無表情なアルバートに対して、ユーリはにっこりと笑った。
「アル、これってなんのこと?」
2人の間に挟まれるように立っていたルルは、この剣呑な空気に小さく震えた。

彼は転がっているミュールに気づいて拾うと、おもむろにこちらを見上げた。
「猿ですか」
「人間ですけどー」
「分別ある人間のする行動とはとても思えないが?」
「分別あるから、目立たない場所で登ってるんでしょ」
マリオンはもう片方のミュールも投げ落とした。狙ったわけではなかったが、アルバートの足元にミュールは転がった。
「あ、ごめん」
アルバートが黙って拾うのを見て、とっさに呟いた。
「降りて来たらどうですか」
「見下ろされるのはイヤなんだね?」
マリオンは笑った。ムッとするアルバートに更に声を上げて笑う。
アルバートはこちらを正視せず、ときどきちらちらと視線を外す。何故か、気まずそうだ。
「まあ…。珍しいものが見れるのも面白いが」
見上げるアルバートの視線に、マリオンははっと気づいてドレスの裾を降ろそうとした…
その瞬間、頭の後ろに空が見えた。

「危なっ…」
マリオンは両手で枝にぶら下がっていた。
「余計なこと言わないでよー」
「黙って見ててもよかったのか」
「な…馬鹿っ!」
足をぶらぶらと振って蹴り倒してやろうとしたが、届かない。
「いいから、早く降りてください。いい加減手を放しなさい」
アルバートは両手を伸ばした。受け止めてくれるらしい。
「自分で降りれるってば」
「ケガをしたらどうするんですか」
「しないってば。だからそこからどいて」
アルバートの手は、マリオンの爪先までぎりぎり届かない。アルバートに抱きとめてもらうのなんて、まっぴらごめんだ。想像するだけで顔から火が出る。でも。
「わかった、降りる」
マリオンの言葉に、アルバートは頷いて。

次の瞬間、押し殺したような悲鳴が短く響いた。
仰向けに倒れたアルバートの上にマリオンは着地していた。
「あははははははは!だからどいてって言ったのに!」
降りると言ったマリオンは、こともあろうにアルバートめがけて、わざわざ振り飛び降りをしたのだった。
そして、マリオンを受け止めようとしたアルバートは、彼女の膝を腹にぶつけられて倒れたのだった。
「ごめんね、当たっちゃった?」
くすくす笑いながら馬乗りになったまま、マリオンはアルバートの顔を覗きこんだが。
アルバートは動かず、目を閉じたままだった。
「あ…れ? アルバート?」
打ち所悪かった?マリオンはアルバートの顔にそっと耳を寄せた。息はしているようだ。
「だいじょうぶなの…?」
マリオンがアルバートの眼鏡に手をかけようとしたそのとき。
眼鏡は掴めず、かわりに自分の手を掴まれた。
「なんてことをしてくれるんですか、あなたは」

マリオンの膝蹴りを喰らい、一瞬もんどりうってしまったものの、まあ無事に着地出来たのでよしとしたかった、が。
何故自分の上に馬乗りになったままどかないのだ。いやがらせか。
しかし、自分にかかるこの重さは悪くなかった。目を閉じたままにしていると、不安げな細い声が聞こえてくる。
やわらかな髪の感触が頬を伝い、かすかな花の香りがアルバートに思い出させた。
あのときと同じように…
咄嗟にマリオンの手首を掴んでいた。
せっかく忘れようとしていたのに。「なんてことをしてくれるんですか、あなたは」

「ごめん」
かすれたソプラノが聞こえると、澄んだ青い瞳が瞼に隠れ、長い睫毛がかすかに震えた。

「また、笑いますか?」
そういって、もう片方の手でマリオンのうなじを引き寄せて唇を重ねた。
びくりと跳ね起きようとする体を押さえて反転させて、天地は逆になった。
「ぶつかっておかしくなった?」
マリオンは呟いた。笑ってはいなかった。
「ぶつけたのは腹だ。ひどいやつだ」
細い顎を掴んで、もう一度口づける。


初出:2013年7月9日


to be continue→苦くて、甘い。02

苦くて、甘い。02

いきなり深く口づけられて、マリオンはうろたえた。
こんなの知らない。
こんなアルバート、知らない。

唇がわずかに離れたとき
「やめて…」
という声がアルバートの耳に届いた。
弱々しいけれど、うるんだ瞳はまっすぐにこちらを見上げて睨んでいた。なのに、止めるどころかより力を込めてマリオンの動きを抑えようとする自分がいた。
「痛っ!やめ…っやめてってば!馬鹿っ!」
比較的自由だったマリオンの足がアルバートの足を蹴った。その瞬間、掴まれていた手の力が緩んだ。
「痛いっていってるでしょ!」
同時に乾いた音が辺りに響く。熱くなった左頬が打たれたのだと気づいた瞬間、二発目を繰り出さそうとするマリオンの手を素早く受け止めて避けた。
アルバートはゆっくりと手を離した。

「・・・すみません」
俯いて、それだけ告げると体を起こし、離れて力なく腰を下ろした。両手で顔を覆い、彼の表情は見えなくなった。
 マリオンは小さく息をついて空を見上げた。ここに来たときは水色だった空が、淡いラベンダーに変わろうとしている。鼻の奥がツンとした。
「・・・痛いんだけど」
マリオンは呟く。
「背中、痛いんだけど!」
仰向けのまま、目をぎゅっと閉じて声を張り上げた。 両手を空に向かって上げて。アルバートは顔を上げてマリオンの方を向いた。
袖がめくれてしなやかな腕が見えていた。まっすぐに伸ばされたその手を、おそるおそる握り、マリオンの体をそっと起こした。

「申し訳ありません。もう・・・しません」
 当たり前でしょ!と、思うのにそれに対する返事は
「アルバートの馬鹿!」
だった。
どうにも押さえられない気分のまま立ち上がり、アルバートの脇を抜けて東屋に向かう。さっさと行くつもりが、途中で面白半分に抜いていた枯れ草に足を絡ませ、躓きかけてしまった。
「こっちに、来ないで!!」
近づいて来ようとするアルバートを睨んで制する。アルバートはその場にぴたりと立ち止まった。
「服、着直すんだから! だから、あっち向いてて」


と言って始めたものの。
ひとりきりで鏡もないところで、どうやってこの服の乱れを直せばいいのか。
とにかく背中と腰の後ろで結ばれたリボンをほどいて、土ぼこりと草の葉を払い落とす。
ひたすら服を叩いているうちに溢れかけていた涙はひいて、ひんやりとした風に手を止めた。そよそよと、髪が頬を撫でていく。
埃の汚れは叩いても完全には取りきれず、 やたらに捲り上げたり、押さえつけられたりしたせいか、妙な皺がたくさんついてしまっている。
本当に木登りだけでこうなったのか?とルルが問いつめて来るのは確実だろう。
アルバートが来たとき、すぐに降りればよかったんだ。
ちょっと困らせてやろうだとか、からかってやろうだなんて、考えた自分が馬鹿だった。今まで何回も繰り返して、何回も素通りして終わっていたから油断した。
ここまで、と引いた線を、この間越えられてしまったのに。
東屋から少し離れたところに、アルバートの背中が見える。何故待たせてるんだろう、先に帰ってもらえばいいのに、そうしない自分は一体何なのだ?
「あの・・・」
「なんでしょう」
振り返らずにアルバートが答えた。気持ちよりも先につい声をかけてしまった。どうしよう。
「先に、戻ってていいよ、もう」
「なぜ?」
「なぜって・・・」
マリオンは口ごもる。
「まだ、時間かかっちゃうから。私がここにいるの、わかればいいでしょ?だから、先に・・・」
アルバートは盛大に息をついた。
「そうではなく」
 マリオンは言葉を遮られて、リボンを弄る手を止めた。
「時間がかかるのなら」アルバートの声はひどく静かだった。
「手伝え、と何故言わないんですか」
えっ?マリオンはそのまま固まってしまった。
服を、着直すのを、手伝う?誰が?アルバートが?!待って!
それは困る!と顔を上げると、既に目の前にはアルバートが立っていた。
マリオンが履き損ねた靴を持って。

「言いたいことがあるのはわかりますが、このままでは本当に日が暮れてしまう」
 アルバートはさっさとマリオンの後ろへまわると、有無を言わさずリボンを結び始めた。
「ちょっ・・・」
「大人しくしていてください」
手際のいい動きに、マリオンは黙りこんだ。さっきのさっきなのに、この切替の早さって・・・などと半ばあきれ、半ば感心していると。
「自分のことは自分でする、という人が一人で脱ぎ着できない衣装を着るとは」
「それ余計だから!」
後ろに向かって肘鉄を喰らわせようとしたら、くるりと向きを変えられ
「あなたも大概に余計だ」
と、肘を押さえられてしまった。慇懃無礼な普段と同じ態度に、逆にほっとする。
「出来ました。髪はどうしますか?」
「・・・別にいい。ありがと」
マリオンは頭の左右に結んだリボンをほどいた。金色の長い髪をおろし、ふるふると頭を振って髪を背中へ散らす。やわらかに波打つ髪は淡く輝いていた。
「これでいいから」
口の端にわずかな笑みを浮かべる。

惹き付けて止まないその微笑を。今、この自分に見せるのか。
つくづく、ひどいやつだ、とアルバートは思った。


「痛た・・・」
「どうしました?」
マリオンは石のベンチにへたり込むように座わった。ベンチの上に右足を乗せて踵をさすっている。
「さっき、木登りしたときに、どこか引っ掛けたみたい」
アルバートはマリオンのそばに屈み、その右足首を掴んだ。
「ひゃっ!!」
「ああ。擦り剥けていますね」
「触んないでよ」
というマリオンの声をアルバートは無視して足首を持ったまま、もう片方の手でコートのポケットをさぐった。
白くて華奢な足。そのまま地につければあっというまに傷だらけになるだろうに、構わず裸足で踏み入れる。
「ひどいプリンセスだ」
つい、いつもの調子で呟いてしまったが、マリオンは黙ってアルバートの手を見つめているままだった。
取り出したハンカチで傷を覆うように踵を包んで端を結ぶと、ありがとう、と小さな声が返って来た。
その声は反則だ。越えてもいいのかと錯覚しそうになる。


マリオンの顔をじっと覗きこんだ。
「何?じっと見て…」
立ち上がってマリオンの隣に座ると、アルバートはおもむろに手を伸ばし、指先でマリオンの目尻を拭った。
マリオンの肩がかすかに揺れる。アルバートは更に顔を近づけた。
「顔も、汚れてた・・・?」
マリオンはちょっとおどけて小さく笑ったが、それがひどくぎこちなく見えた。怯えているのならごまかさず離れればいいし、そう言えばいい。
けれど、覗きこむ自分をまっすぐ見つめ返してくる。
拭ったものの、それは取れなかった。もう一度指先で触れると、マリオンはわずかに顔をしかめる。小さな切り傷だった。
「こんなとこまで怪我をして」
乾いた血が肌にこびりついていたらしい。
「・・・これはアルバートのせいだと思う」
 マリオンがぽつりと呟く。
「さっき、アルバートが・・・」
囁くような、自分を呼び寄せるような。
だから、そういう声はやめて欲しいのに。


かすかな鉄の味は、涙と同じくらいに甘い。

マリオンの頬に手をかけると顔を背けられたが、掌の中に彼女の唇を感じたので、そのまま引き寄せて目尻に口づけた。
舌でその傷を拭う。
「アルッ・・・」
みごとなほどに紅く染まっていく顔を眺めていると、マリオンはきっと睨みあげて手を伸ばし。
そっと、アルバートの眼鏡を外した。
「見ないでよ」
それは、抗議にも拒否にもならない。
お互いの息がかかるこの距離で、見えないものなどあるものか。
「落とすなよ」
なにか言おうとするマリオンの声を、アルバートは唇で塞いだ。
眼鏡を持った手は空を切り、やがて力なく垂れ下がると、草の上にその眼鏡を落とした。



「もうしない、って言ったのに・・・」
濡れた唇から溢れる言葉が、アルバートを繰り返し引き寄せる。



fin.

初出:2013年7月11日



このあと、プリンセスはアルバートに抱っこされて帰城しました。何時に着いたのかは知りません。